鹿児島県警察
鹿児島県警察
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明治8年(1875年)に県令大山綱良より鹿児島県四等警部に任命され警察署長となったものの、警察署長としては階級が低かったため三等警部に昇進する。また、天文年間から禁止されていた浄土真宗(一向宗)の取り締まりに警察官が割かれ不足することを懸念し、大山と相談の上これを解いた。この浄土真宗の解禁によって、島津久光一派のけん制をも狙ったとされる。 明治9年(1876年)、山口県萩にて萩の乱が勃発したため、鹿児島県下の治安維持を同じく三等警部であった中島健彦に任せ、西郷の指示で上方へ赴き、情報の収集にあたった。
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鹿児島県警察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 04:55 UTC 版)
1953年(昭和28年)5月1日、鹿児島市警察巡査部長に任官。鹿児島県警察剣道大会で優勝し、第1回全国警察官剣道大会に出場する。 同年11月8日、第1回全日本剣道選手権大会に出場。優勝候補と目されたが、2回戦で25歳最年少選手野間和俊に敗れ、戦前からの連勝が止まる。 1954年(昭和29年)10月10日、第2回全日本剣道選手権大会で第3位に入賞。同年11月28日、第1回全日本東西対抗剣道大会に出場し、以降第9回まで連続出場。12回、13回大会にも出場。9人抜き、常勝不敗の記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとる。 1955年(昭和30年)3月、鹿児島県警察学校教官に就任。1957年(昭和32年)、第8回南日本文化賞スポーツ部門受賞。1958年(昭和33年)、第3回西日本スポーツ賞受賞。 1959年(昭和34年)5月、全日本剣道連盟から48歳、最年少で剣道八段を授与される。 1962年(昭和37年)5月、最年少で剣道範士に昇進する。同年、周囲から懇願され、国民体育大会(岡山国体)に大将として出場する。一度も敗れることなく鹿児島県を優勝に導いたが、当時若者の大会とされた国体に範士八段が出場することは異例で、清は後輩が審判をしている大会に選手として出場していることが恥ずかしく、待ち時間は隠れていたという。 1964年(昭和39年)、東京オリンピックデモンストレーション剣道試合に出場。 1966年(昭和41年)、関東管区警察学校教授に就任。
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