連邦人民共和国の成立とは? わかりやすく解説

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連邦人民共和国の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:10 UTC 版)

ユーゴスラビア」の記事における「連邦人民共和国の成立」の解説

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照 大戦中の1943年成立したユーゴスラビア民主連邦社会主義標榜し新たな国家体制構築奔走した戦後自力ユーゴスラビア解放成功したチトーは王の帰国拒否しロンドン亡命政権否認ユーゴスラビア連邦人民共和国成立宣言した戦後政権党となったユーゴスラビア共産党1952年ユーゴスラビア共産主義者同盟改称)は、1948年チトーヨシフ・スターリン対立してコミンフォルム追放されて以降ソ連支配から外れ、独自の路線歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカ戦後ヨーロッパ再建ソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プラン受け入れ姿勢取り東ヨーロッパ諸国衛星国として取り込もうとしていたソ連対立したソ連対立したため、東ヨーロッパ軍事同盟であるワルシャワ条約機構加盟せず、1953年にはギリシャトルコとの間で集団的自衛権明記した軍事協定バルカン三国同盟英語版)を結んで北大西洋条約機構事実上間接的な同盟国となる。社会主義国ありながら1950年代米国相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットンM4中戦車M36ジャクソンM18駆逐戦車M3軽戦車M8装甲車M3装甲車M7自走砲M32 戦車回収車M25戦車運搬車GMC CCKWM3ハーフトラックM4トラクターデ・ハビランド モスキートP-47F-86F-84T-33など大量西側兵器米英から供与され1960年代にはスターリン批判ニキータ・フルシチョフ指導者になったソ連和解して東側軍事支援得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍 など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し冷戦下における安全保障策として非同盟運動Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線打ち出した。その一方ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器国産化力を入れ特殊潜航艇 なども開発したユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍配置し武器配備した地域防衛軍武器は、後のユーゴスラビア紛争利用され武力衝突拡大する原因となった社会主義建設において、ソ連との違い打ち出す必要に迫られ結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段ソ連流の国有にするのではなく社会有にし、経済面分権化を促し、各企業労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このためユーゴスラビアでは各企業労働組合によって社長求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間経済格差拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争原因一つとなった加えて市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場発達経済成長悪影響を及ぼす矛盾内包していた。 第二ユーゴスラビアスロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロマケドニア6つ共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナコソボ2つ自治州によって構成され各地域には一定の自治権認められた。これらの地域からなるユーゴスラビア多民族国家であり、その統治難しさは後に「七つ国境六つ共和国五つ民族四つ言語三つ宗教二つ文字一つ国家」と表現された。 詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性内包し国家」を参照 このような国で戦後長期間わたって平和が続いたことは、チトーバランス感覚カリスマ性によるところが大きいとも言われる1963年には国号ユーゴスラビア社会主義連邦共和国改称1974年には6共和国と2自治州を完全に同等立場置いた新し憲法施行された。 1980年チトー死去する各地から不満が噴出した同年コソボ独立求め運動起こったスロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側共和国自治州スロベニア経済成長足を引っ張っているとして、分離気運高まったクロアチア人政府セルビア牛耳られていると不満が高まりセルビア人自分達の権限押さえ込まれすぎているとして不満だった経済的な成長遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。 東欧革命起こって東欧共産主義政権一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟一党支配断念し1990年自由選挙実施したその結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いセルビア民族中心主義勢力台頭したクロアチアではフラニョ・トゥジマン率い民族主義政党クロアチア民主同盟議会3分の2占めボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会大半占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州ヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデター起こされ実質的にミロシェヴィッチ支配下となっていた。1990年から1991年にかけて、スロベニアクロアチア連邦権限極力制限し共和国大幅な自治権認める、実質的な国家連合への移行求め改革提案したが、ミロシェヴィッチ支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し対立深まった

※この「連邦人民共和国の成立」の解説は、「ユーゴスラビア」の解説の一部です。
「連邦人民共和国の成立」を含む「ユーゴスラビア」の記事については、「ユーゴスラビア」の概要を参照ください。

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