連邦人民共和国の成立
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「ユーゴスラビア」の記事における「連邦人民共和国の成立」の解説
詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照 大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍 など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。 社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。 第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。 詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照 このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。 1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。 東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。
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