連邦主義者対反連邦主義者、1787年-1788年
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「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「連邦主義者対反連邦主義者、1787年-1788年」の解説
「ザ・フェデラリスト」を参照 1787年、ジョージ・ワシントン、アレクサンダー・ハミルトンおよびベンジャミン・フランクリンに率いられる指導的民族主義者がフィラデルフィアで憲法制定会議を招集した。この会議では新しい憲法を策定し、各州の批准を求めて送付された(それまでの連合会議がこの手続きを承認した)。この過程でジェームズ・マディソンが最も有名な人物となり、「アメリカ合衆国憲法の父」と呼ばれることが多い。 憲法の批准のために、新憲法を支持しマディソンとハミルトンに率いられる「連邦主義者」と、新憲法に反対する「反連邦主義者」の間に激しい議論が起こったが、『ザ・フェデラリスト』を著し、自身の反対勢力を「アンチ・フェデラリスト」として反主流派であるかの如きイメージ戦略の浸透に成功した連邦主義者が勝利し、憲法は批准された。反連邦主義者は(イギリスのように)強い中央政府の理論的危険性を深く心配し、いつかは州の権限を奪うのではないかと怖れた。こうした背景もあり、州議会における批准は順調とは言い難く、ノースカロライナ、ロードアイランドでは批准が憲法発効に間に合わなかったほか、西部を中心にかろうじて賛成多数を得た州もあった。 「連邦党」という呼び方は1792年から1793年に始まり、1787年から1788年の新憲法支持者とは多少異なる構成員と全く新しい構成員、さらにはパトリック・ヘンリーの様な新憲法に反対した者までが加わった。マディソンは憲法草案の大半を起草しており、1787年から1788年には連邦主義者だったが、ハミルトンの政策と新しい「連邦党」には反対した。
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