軍事基地としての真珠湾
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「真珠湾攻撃」の記事における「軍事基地としての真珠湾」の解説
1898年(明治31年)7月、アメリカはハワイ併合を行うと、海軍基地を順次整備していき、太平洋上における戦略上の軍事拠点として、またフィリピンへの中継拠点として、その存在意義が高まっていった。1940年(昭和15年)5月には、日本の南方政策を牽制するためアメリカ合衆国西海岸サンディエゴに駐留していた太平洋艦隊の主力が、ハワイの真珠湾に駐留するようになった。当時のハワイはアメリカが巨費を投じて構築した要塞であり、「太平洋のジブラルタル」と呼ばれ、難攻不落と思われていた。軍事評論家フレッチア・ブラッドは「真珠湾はおそらく、世界中で最良の海軍基地であり、これほど最良の位置にあり、最高に防御され、また最高に補給された基地は他のどこにもない。」と評価し、アメリカ極東陸軍司令官のダグラス・マッカーサー少将も「真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。」と分析していた。アメリカの新聞が「日本は我々を攻撃することはできない。それは軍事的に不可能なことである。ハワイの基地でさえ日本の艦隊の有効な攻撃力の圏外にある。」と報じ、ジャーナリストのクラーク・ビーチが「日本の真珠湾に対する攻撃は、もっともありうべからざることである。成功のチャンスは百万にひとつしかない。」と寄稿したように、アメリカの国民や軍の多くの人々は“金城鉄壁の真珠湾”という真珠湾の触れ込みを信じ切っており、日本軍の攻撃への警戒が非常に希薄であった。 しかし、ハワイへの空からの攻撃の可能性については、かなり前から指摘され続けており、古くは1920年代に航空主兵論の熱心な論者ウィリアム・ミッチェルが、ハワイのオアフ島について防空体制の不備を指摘する意見を公表している。また1932年(昭和7年)にはアジア艦隊(英語版)司令長官のハリー・E・ヤーネル大将が、日本が宣戦布告前に空母でハワイもしくはアメリカ合衆国西海岸を攻撃する可能性を指摘し、2月7日日曜日、実際に就役間もない空母2隻(レキシントン、サラトガ)と4隻の駆逐艦を使用し、152機の攻撃機がオアフ島沖96kmの海上から防御体制のできていない真珠湾を早暁に奇襲する模擬訓練を行ったところ、理論上湾内に碇泊する全ての艦船を沈め、地上の航空機も全て破壊する計算で、完全に成功している。この演習の模様はホノルルの日本領事館から本国に報告されていた。第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツの快進撃が続いていた1940年(昭和15年)になると、太平洋艦隊司令長官のジェームズ・リチャードソン大将はフランクリン・ルーズベルト大統領に太平洋艦隊主力を真珠湾に置いていることの危険性について進言すると共に、日本軍の奇襲に備え洋上哨戒(しょうかい)を強化したが、ルーズベルトとは意見が合わず解任され、1941年(昭和16年)2月にはハズバンド・キンメル大将が太平洋艦隊司令長官に就任している。 キンメルも前任のリチャードソンと同様に、オアフ島の危険性については十分認識しており、太平洋艦隊司令長官になると直ちに「開戦の布告に先立って、真珠湾の艦船に攻撃があるかも知れない」と極秘指令を出し艦隊に警戒を呼び掛けたが、結局は潜水艦による攻撃に備えての駆逐艦の哨戒強化の指示に止まった。昼夜を問わず360度の警戒を行うだけの偵察機を有さなかったことを理由に、初めから航空哨戒についての努力を放棄していたのである。1941年(昭和16年)8月にはハワイ陸軍航空隊指揮官、フレデリック・L・マーチン少将と第5爆撃航空隊指揮官ウィリアム・C・ファーシング大佐と数名のスタッフによる作戦研究で「日本海軍は6隻の空母を使用し、北方から攻撃をかけてくる。オアフ島に対する攻撃は早朝が敵にとってもっとも有利であろう。」という、ほぼ完全に日本軍の作戦を予見した研究結果が出て、キンメルや陸軍省にも報告されているが、その報告により航空哨戒が強化されることはなかった。この頃のアメリカは大西洋の戦局に大きな関心を向けており、日本軍の真珠湾での攻撃の可能性については十分に認識していたが、それを現実的な脅威とは考えていなかった。キンメルは海軍作戦部長のハロルド・スターク大将に「大西洋の問題を軽く見るわけではないが、ここから見ていると、太平洋は依然として世界情勢の一部である。」と愚痴めいた書面を贈ったのに対し、スタークは「私自身はジャップがやってくるとは思わない」と答えている。 それは、ハワイ方面陸軍司令官のウォルター・ショート中将の陸軍も同様で、ハワイには二個師団の防衛部隊が配置されていたが、常に補給と訓練の問題に悩まされていた。強力な戦力となる「空の要塞」B-17爆撃機はアメリカ本土の工場で製造されると、オアフ島に空輸されて武装その他の最終装備が施されるが、それからB-17はハワイにほとんど留まることなく、フィリピンに送られていた。陸軍の誰もがハワイでB-17が必要になるとは思っていなかったからである。ハワイの陸海軍の総指揮官であるキンメルとショートは一週間おきの日曜日に一緒にゴルフを楽しむなど個人的には懇意であったが、陸海軍の連携や協力は無いに等しく、ショートは海軍が航空哨戒をしていると思い込んでおり、陸軍は哨戒活動をほとんどしていなかった。こうした、陸海軍の警戒態勢の不備、大西洋重視、日本軍に対する過小評価がアメリカ軍の油断を生じさせていた。
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