軍事境界線の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 18:28 UTC 版)
「軍事境界線 (ベトナム)」の記事における「軍事境界線の設置」の解説
1954年7月21日に締結されたジュネーヴ協定は、ベトナムを共産主義国家の北ベトナムと、親西側陣営の南ベトナムとに一時的に分割することを取り決めていた。そして、そこでは「17度線」を「暫定的な軍事境界線」とする規定が為されていた。ジュネーヴ協定は、1956年7月に自由選挙を行い、統一的な中央政府を樹立することを定めていた。しかし、協定にはフランスと北ベトナムのみが調印し、アメリカと南ベトナム(ベトナム国)は、統一選挙がホー・チ・ミンの圧勝をもたらすと信じていたことから、協定への調印を拒否した。 これは、一党独裁下の共産圏においてまともな民主主義的選挙が実際に行われ得るかということについて大いなる疑念があったためであり、また、この選挙には国際的な監視役すら存在していなかったためである。さらに、この状態でもし選挙が実施されれば、全土が共産化し、東南アジアにも共産化の波=ドミノ理論が拡散するのではないか、という危機感を抱いていたためでもあった。 その後、ベトナム国の国家元首であるバオ・ダイは、首相にゴ・ディン・ジエムを任命した。しかし、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエムは、1955年に国民投票を使用してバオ・ダイの免職とベトナム共和国の設立、並びに初代大統領への就任を果たした。これにより、南北ベトナム政府はベトナム統一をめぐって体制間競争を競い合うようになり、南ベトナムでの南ベトナム解放民族戦線による内戦が次第にベトナム戦争へと発展していくこととなった。
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