超ウラン元素生成への異論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:23 UTC 版)
「核分裂の発見」の記事における「超ウラン元素生成への異論」の解説
フェルミは1938年に「中性子線照射によって新しい放射性元素が生成したことを証明し、それと関連して遅い中性子によって誘発される新しい核反応を発見した」ことでノーベル物理学賞を受賞した。しかし、中性子を捕獲したウランがベータ崩壊によって周期表を一つ上り、当時未確認だった超ウラン元素へと変化したというフェルミの説明に対する反論もあった。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 中性子で核を破壊する場合には、陽子やアルファ粒子の照射では見られなかったまったく新しい種類の核反応が起きるという仮定も十分に成り立つ。これまでに分かっているところでは、核変換は必ず電子、陽子、ヘリウム原子核のいずれかの放出を伴っており、それによって重元素はわずかに質量の異なる近傍の元素へと変化する。だが重元素への中性子照射では核がいくつかの大きな破片に分かれることも考えられる。それは当然ながら既知の元素の同位体であろうが、照射された元素の近傍ではないだろう。 イーダ・ノダックが1934年9月に発表したこの論文はローマのフェルミらや、パリのキュリーとジョリオ、ベルリンのハーンとマイトナーの目に触れた。実のところノダックは正鵠を得ていたのだが、引用部分は論点のごく一部に過ぎず、あまり注目されなかった。当時の理論物理学者にとって核がそれほど大きな変化を起こす可能性は想像の埒外だった。またフェルミらはノダックと別件で論争しており、新たな批判を好意的には受け止めなかった。マイトナーもノダックの主張を気に留めなかった。ノダックが女性であることで偏見を抱いたわけではないだろうが、マイトナーは同僚のハーンに 「雄鶏さん(ハーンはドイツ語で鶏を意味する)、物理のことは何も分かってないのね」と言ってはばからなかった人物である。その辛辣さは、新しい原子核模型を立てるでもなく、実験で主張を実証することもなかったノダックに対しても向けられた。ノダックは高名な分析化学者だったが物理の知識に欠けており、自分がどれだけ大それたことを提案しているか分かっていなかった。エミリオ・セグレは後の回想で、ノダックの批判を「科学以前のもの」と言いつつ、「人は予想しているものしか見えない」と述べている。 フェルミの主張を批判したのはノダックだけではなかった。アリスティッド・フォン・グローセ(英語版)はフェルミの見つけた同位体がプロトアクチニウムではないかと指摘した。マイトナーはこの問題を追求することに意欲をかきたてられたが、熟練の化学者の手を借りる必要を認識し、知っている中で最高の化学者であるハーンを望んだ。二人がそれぞれ物理部門・化学部門の長として別々に学生や研究プログラムを抱えるようになってから何年も経っており、最初ハーンは共同研究に興味を示さなかった。しかしフォン・グローセがプロトアクチニウムに言及したことで気を変えた。後にハーンはこう書いている。「唯一の問題は、フェルミが見つけたものが超ウラン元素の同位体なのか、それとも一つ低い元素プロトアクチニウムの同位体なのかということのように思われた。リーゼ・マイトナーと私はこのとき、フェルミの実験を繰り返して、その13分の同位体がプロトアクチニウムなのかどうか確かめようと決めた。プロトアクチニウムを発見した私たちとしては当然の決断だった」 1935年の初め、ハーンとマイトナーはフリッツ・シュトラスマンをチームに加えた。シュトラスマンは1929年にハノーファー工科大学で分析化学の博士号を取得し、ハーンの下で学ぶことが将来の職につながると信じてカイザー・ヴィルヘルム化学研究所に来た。そこでの仕事と同僚は性に合っており、1932年に奨学金が切れた後も留まり続けた。しかし1933年にナチ党がドイツの政権を握ると雲行きが変わってきた。シュトラスマンは好条件の就職話に出会ったが、政治的教育とナチ党への入党が条件だったため断った。さらにナチス傘下のドイツ労働戦線に吸収されたドイツ化学者協会(英語版)を退会した。その結果、化学産業で働くことも、ドイツで研究者として独り立ちするのに必要な大学教員資格(英語版)を取ることもできない立場となった。マイトナーは所長となっていたハーンを説得し、特別経費から予算を割いてシュトラスマンを雇わせた。1935年に給料半額の助手になったシュトラスマンは、その後すぐにマイトナーらの論文に共著者として名を連ねていくことになる。 1933年の職業官吏再建法(ドイツ語版)によりユダヤ人は学術界を含む公務員職から追放された。マイトナーはユダヤ系の血筋を隠していなかったが、いくつかの理由で当初この法の影響を免れていた(1914年より前から職に就いており、第一次大戦中に軍で働いており、ドイツ人ではなくオーストリア国籍であり、さらにカイザー・ヴィルヘルム研究所は政府と産業界の共同経営だった)。しかし第一次大戦での奉仕が前線ではなかったことと1922年まで大学教員資格を得ていなかったことが理由でベルリン大学外部教授の地位からは追われることになった。カイザー・ヴィルヘルム研究所の主要な出資者の一つIGファルベンの取締役だったカール・ボッシュはマイトナーに同所での地位を保証し、マイトナーも留まることに同意した。反ナチ姿勢を共有するマイトナー、ハーン、シュトラスマンは研究所の中で孤立し、そのぶん三人の間の個人的な絆を強めていった。一方で、研究所の運営業務がハーンやマイトナーの手から離れたことで研究時間が十分取れるようにもなった。
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