カイザー・ヴィルヘルム研究所とは? わかりやすく解説

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カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会

(カイザー・ヴィルヘルム研究所 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/04 18:50 UTC 版)

カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会
ドイツ語: Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften
後継 マックス・プランク協会
設立 1911年
解散 1948年
目的 基礎研究
本部 ダーレム、ゲッティンゲン
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カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会ドイツ語: Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften)は、1911年にドイツ帝国で設立されたドイツの研究機関で、その機能はマックス・プランク協会に引き継がれた。カイザー・ヴィルヘルム協会とも。カイザー・ヴィルヘルム協会はその権限の下で造られた多くの研究所、試験所、および研究ユニットの統括組織だった。

組織

ベルリンの元カイザー・ヴィルヘルム化学研究所、ここでは核分裂反応が検出された
ベルリンの元カイザー・ヴィルヘルム生物学研究所
1913年、ダーレム (ベルリン)英語版ドイツ語版のカイザー・ヴィルヘルム研究所にて。右から:アドルフ・フォン・ハルナックフリードリッヒ・フォン・イルベルクドイツ語版ヴィルヘルム2世カール・ノイベルグアウグスト・フォン・トロット・ツー・ゾルツドイツ語版

カイザー・ヴィルヘルム協会(KWG)は、国およびその行政から正式に独立して研究機関を設立および管理することによって、ドイツの自然科学を振興するために1911年に設立された。研究所はヴァルター・ボーテピーター・デバイアルベルト・アインシュタインフリッツ・ハーバーオットー・ハーンなどの著名な研究者を含む会長や理事会の指揮下にあった[1]。基金は最終的にドイツ内外の資金源から得られた。内部的には、en:Notgemeinschaft der Deutschen Wissenschaftのみならず、個人、産業界、政府から資金を工面した。ドイツ外部では、ロックフェラー財団が世界中の学生にどの機関を選ぶかに関わらず、1年分の学費を助成し、一部の学生はドイツで学んだ[2][3][4]。ドイツの大学とは対照的に正式に国の管理から独立しているため、KWGの研究所は学生を教える義務はなかった。

カイザー・ヴィルヘルム研究所(KWI)とその研究設備は第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方で、武器の研究、実験、生産に関与した。第一次世界大戦の間、特にフリッツ・ハーバーのグループは、毒ガスを兵器として導入する責任を負っていた[5]。これは確立された国際法に明らかに違反するものだった。第二次世界大戦の間、KWIによって行われた武器と医学に関する研究のいくつかは、強制収容所の生きている被験者に対する致命的な実験に関連していた[6]。実際、KWIの人類学部のメンバー、特にオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーアウシュビッツから研究と展示のために保存されたユダヤ人の遺体を受け取った[5]。これらはヨーゼフ・メンゲレ博士によって提供された[5]。アメリカ軍が移転されたKWIを包囲した時、有力な実業家で初期のナチ党の後援者でもあった会長のアルベルト・フォーグラー英語版は、グループの人道に対する罪戦争犯罪の共謀に対する責任を負わされると悟り自殺した[5]

戦後

第二次世界大戦の終わりまでに、KWGとその研究所はベルリンの中心的な場所を失い、他の場所で活動していた。KWGはゲッティンゲンに空力学試験場を設立していた。KWGの会長のアルベルト・フォーグラー英語版は1945年4月14日に自殺した。そこで、アーネスト・テルショウ(Ernst Telschow)は、マックス・プランクイギリス占領区域にあったマクデブルクからゲッティンゲンに来ることができるまで職務を引き継いだ。プランクは5月16日から会長が選ばれるまで職務を引き継いだ。オットー・ハーンが会長に選任されたが、克服しなければならない多くの困難があった。原子核研究に関わっていたハーンは、アルソス作戦英語版で連合国軍に捕らえられ、イプシロン作戦英語版のもと、イギリスのファームホールに抑留されたままだった。ハーンは初めは役職に就くことに否定的だったが、口説き落されて受け入れた。ハーンは釈放されてドイツに戻った3か月後に会長職を引き継いだ。しかしながら、米国ドイツ軍政庁英語版(OMGUS)は1946年7月11日にKWGを解散する決議を可決した。

一方、イギリス占領軍のメンバー、特にOMGUSの研究部門は、協会をより好意的に見ており、アメリカ人がそのような行動を取ることを思いとどまらせようとした。物理学者のハワード・ロバートソンは、イギリス占領区域の科学部門の責任者だったが、彼は1920年代に国立研究評議会フェローシップの地位を得て、ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンおよびルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで学んでいた。また、バーティ・ブラント大佐は英国研究部門の職員であり、彼はゲッティンゲンでヴァルター・ボルシェの下で博士号を取得していた。とりわけ、バーティはハーンに王立協会の会長だったサー・ヘンリー・ハレット・デールに手紙を書くように提案した。イギリスにいる間、バーティはまたデールと話し合い、デールが案を思いついた。デールは非難されるべきイメージを思い起こさせるのは名前だけだと思い、協会をマックス・プランク協会と改名することを提案した。1946年9月11日、マックス・プランク協会はイギリス占領区域でのみ設立された。第二次設立が1948年2月26日にアメリカとイギリスの両占領区域でなされた。物理学者のマックス・フォン・ラウエヴァルター・ゲルラッハもフランス占領区域を含む連合国占領区域全体にわたって協会を設立することに貢献した[7][3]

会長

ノーベル賞受賞者

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ A・エロン 『ドイツに生きたユダヤ人の歴史』明石書店、2013年、P.417頁。 
  2. ^ Macrakis, 1993, 11-28 and 273-274.
  3. ^ a b Hentschel, 1996, Appendix A; see the entries for the Kaiser Wilhelm Gesellschaft and the Kaiser Wilhelm Institute for Fluid Dynamics Research.
  4. ^ List of Kaiser Wilhelm Institutes Archived 2013-09-09 at the Wayback Machine. in summary of holdings, Section I (Bestandsübersicht, I. Abteilung), on the website of the Max Planck Gesellschaft Archives (ドイツ語). Retrieved 2015-08-29.
  5. ^ a b c d History of the Kaiser Wilhelm Society” (英語). www.mpg.de. 2019年7月28日閲覧。
  6. ^ Müller-Hill, Benno (1999). “The Blood from Auschwitz and the Silence of the Scholars”. History and Philosophy of the Life Sciences 21 (3): 331–365. JSTOR 23332180. 
  7. ^ Macrakis, 1993, 187-198.

参考文献

  • Hans-Walter Schmuhl: Grenzüberschreitungen. Das Kaiser-Wilhelm-Institut für Anthropologie, Menschliche Erblehre und Eugenik 1927–1945. Reihe: Geschichte der Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft im Nationalsozialismus, 9. Wallstein, Göttingen 2005, ISBN 3-89244-799-3
  • Hentschel, Klaus (ed.) (1996). Physics and National Socialism: An Anthology of Primary Sources. Basel, Boston: Birkhäuser Verlag. ISBN 0-8176-5312-0 
  • Macrakis, Kristie (1993). Surviving the swastika: Scientific research in Nazi Germany. New York: Oxford Univ. Press. ISBN 0-19-507010-0 

外部リンク


カイザー・ヴィルヘルム研究所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)

リーゼ・マイトナー」の記事における「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の解説

1912年ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設されマイトナーはそこで働くことになった当初ハーン客員研究員という、無給役職であったが、同年プランク自分助手としてマイトナー任命したため、少ないながら収入得られるようになった1913年からは正式に研究員となった1914年第一次世界大戦起こりハーン予備軍として召集された。マイトナー手紙ハーン連絡取りながらベルリン研究続けていたが、1915年、自らもオーストリア軍X線技師および看護婦として志願することにした。ポーランド戦地負傷者の治療あたったマイトナー戦場悲惨さ知った戦地での活動1年以上続けたが、やがてマイトナーは、ここでは自分が必要とされていないではないか、「私に与えられ義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ること」ではないか感じようになった1916年10月マイトナー研究所へと戻った研究所ではフリッツ・ハーバー中心として、毒ガスなど、軍事用研究中心となっていたが、その中でマイトナー以前からの放射性物質研究続け1918年新元プロトアクチニウム発見したマイトナー業績認められ1918年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任された。これによりマイトナーはようやく研究者として十分な給与を得ることができるようになった第一次大戦後1920年ハーンとの共同研究終了しマイトナー独立研究を行うようになった。同じ年、プロイセンでは女性大学教授資格認められマイトナー1922年ベルリン大学教授となった。すでに何本もの論文発表しているため、通常必要とされる論文審査免除された。10月行った就任記念講義内容は「宇宙生成における放射能の意味」。当時女性物理学者は非常に珍しかったため、「コスミッシュ(宇宙の)」とすべきところを「コスメティッシュ(化粧の)」と記載してしまった記事もあった。 研究所では助手学生とともに夜遅くまで研究おこなった。他の科学者との交流引き続き盛んだった共同研究行わないものの、ハーンとは同じ実験室使用し研究室同士での交流続いていた。エリーザベト・シーマンとも手紙などで交流続けていた。また、マックス・フォン・ラウエジェイムス・フランクとも親交深めた。さらに1927年には、甥のオットー・ロベルト・フリッシュベルリン滞在し2人ピアノ弾いたコンサートに出かけたりした。

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