監督官庁移管
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太平洋戦争は日本にとって次第に極めて不利な戦局に陥った。この中で政府は戦時体制維持のためにさらなる物資の動員を目指したが電力も例外ではなく、軍需産業用に莫大な電力量を要求した。特に軍部が要求したのは戦闘機増産のための電力供給である。1941年の真珠湾攻撃や翌1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦などにより航空戦の重要性が海軍などで重要視され、制空権を確保し戦争を有利に進めるためには戦闘機の増産は不可欠であった。この軍部の意向は電力行政に直ちに反映され、1943年7月には従来の「電力五ヵ年計画」を見直した「昭和一八年度生産力拡充計画」が策定された。ここで1947年(昭和22年)までの五年間に水力135万キロワット、火力16万キロワットの新規電力開発が決定された。ところがこの計画が決定されたわずか一ヵ月後、再び新規電力開発計画の変更が行われた。この「緊急電力拡充非常対策」で1945年(昭和20年)までのわずか二年間で水力・火力併せて200万~250万キロワットを緊急に拡充すると定められたのである。 「緊急電力拡充非常対策」を着実に実施するため、東條内閣は電力行政を軍需行政の直接監督下に置く方針を打ち出した。そして国家総力戦の遂行を貫徹するため1943年11月1日、首相が大臣を兼任する形で軍需省が設置された。これと同時に電力行政は従来の逓信省から軍需省へと移管され、日本発送電の監督官庁であった逓信省電気局は軍需省電力局として編入された。編入後の翌12月には閣議によって軍需省の電力行政方針が打ち出され、戦闘機増産を主眼においた「電力動員緊急措置要綱」を策定し戦時体制の維持を図ろうとしたのである。同時に民間への電力供給は鉄道、通信、家庭用電力といった必要最小限の供給に絞り、ここにおいて電力も事実上軍部が掌握する状態になった。 だが日本発送電の新規電力開発能力は先に述べた通り「五ヵ年計画」でも一割程度の実績しかなく、「要綱」自体が非現実的であった。かつ物資欠乏のため施工中の発電所についても進捗が滞る有様であった。しかし政府は新規電力開発による戦闘機増産を急ぎ、人海戦術による急ピッチでの建設促進を図った。この中で中国人・朝鮮人労働者や敵対していた連合国軍捕虜などをダム・発電所工事に使役し、過酷な強制労働に従事させるという事態も発生した。長野県の平岡発電所(天竜川)や広島県の滝山川発電所(滝山川)などで見られたほか、北海道の雨竜発電所(雨竜川)では劣悪なタコ部屋労働を強いた。また工事従業員に対する安全確保もずさんであり、富山県の黒部川第三発電所(黒部川)工事では雪崩やトンネル内の高熱による火薬爆発事故などで多数の労働者が殉職するなど、日本発送電が関わった工事では多くの労働者が命を落としており、現在ダム近傍には慰霊碑が建立されている。 また、本来は地域開発のために実施される河川総合開発事業についても軍需省による介入があり、広島県の広発電所(黒瀬川)は呉海軍工廠のために建設され、愛媛県の柳瀬ダム(銅山川)では愛媛県と徳島県の協議によって廃止した水力発電事業を強引に復活、さらに水利権を巡り福島県と群馬県の間で係争状態であった尾瀬沼の分水問題も強引に利根川水系に分水させた。神奈川県の相模ダム(相模川)では横須賀海軍工廠への電力供給も目的にしていたことから、ダム建設に反対する地元住民に対して小磯国昭や杉山元、荒木貞夫など陸軍首脳が地元に乗り込み、陸海軍合同閲兵式を開き示威行動を行うなど戦時体制維持のためになりふり構わぬ姿勢を見せた。 しかし日本の戦況は日を追う毎に悪化の一途をたどり、物資の欠乏は決定的となった。1944年(昭和19年)8月小磯内閣は「決戦非常措置要領」を発令、全ての物資を戦時体制維持のために軍需に徴用する方針を打ち出した。この結果施工中の水力発電所は建設の続行が不可能になり、ほとんど全ての事業が中断に追い込まれた。また空襲によって火力発電所や変電所は破壊されて発電・配電機能は喪失し、残った水力発電所も酷使や老朽化の補修ができないため事故が続発。発電能力は戦前の60パーセント程度にまで減衰した。こうした中で終戦を迎えたが、電力需給のバランスは崩れたままであった。
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