電力五ヵ年計画
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1939年に日本発送電が発足した当初は、水力発電所134箇所・197万6,800キロワット、火力発電所18箇所27万3,552キロワット、変電設備115箇所、総容量464万8,350キロボルトアンペア、送電線の全延長7,947キロメートルの設備があった。政府は戦時体制遂行のために早急な新規電力資源開発を進めたが、特に水力発電に重点を置いて開発を行った。既に1937年に逓信省が実施した第三次発電水力調査によって、大規模ダム式発電所の建設が必要であるとの認識が示され翌1938年10月には電力審査会によって「発電及び送電予定計画要綱」が策定された。これにより「水主火従」を原則とし、大規模で高能率の水力発電所を多数建設しこれを大規模送電によって円滑な電力供給を図ろうとしたのである。その翌年、1939年には「電力五ヵ年計画」を定め、1943年(昭和18年)までの五年間に新規水力発電を185万キロワット、火力発電を92万キロワット開発するという遠大な計画を打ち立てた。 「電力五ヵ年計画」の策定に従い、日本発送電はかつて電気事業者が手掛けていた開発事業の着手に乗り出した。発足当時施工が進められていた水力発電所は合わせて83万キロワットに及び、これら事業の早期完成が求められた。さらに計画段階にあった尾瀬第一・第二発電所(利根川)や朝日発電所(飛騨川)などの大規模ダム式発電所計画を早期に着手すべく、調査に乗り出した。ところが実際に運営を開始すると許認可や準備命令などの上意下達が上手く行かず、計画の遂行が遅々として進まないという問題が発生した。また、逓信省が計画した「電力五ヵ年計画」に沿った発電所建設計画はコストの割りには設備規模が小規模で、コスト&パフォーマンス的に問題があった。この結果、1943年までに新規に開発された電力は水力・火力を併せても44万キロワットと、当初の計画に比べ約15.3パーセントにしかならなかった。さらに太平洋戦争の戦局悪化に伴い物資の不足が深刻になり、新規の電力開発は抑制せざるを得ない状況に陥った。このため既設の設備を最小限度に補修するという消極的な対応を余儀無くされたのである。
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