漢詩・俳句・短歌
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徳川光圀 遊朝比奈泰通亭。賦湖上春望(朝比奈泰通亭に遊び湖上の春望を賦す)千波湖上落霞飛(千波湖上落霞とぶ)柳挟長堤映夕睴(柳は長堤を挟(さしはさ)んで夕睴に映ず遥覓紅雲揩望眼(遥かに紅雲を覓(もと)めて望眼を揩(こす)れば)香風満腹一帆帰(香風満腹一帆帰る) — 徳川光圀、大森林造著『義公漢詩散歩 常陸の巻』92-93p(『常山文集』巻之十所収) 1697年(元禄10年)光圀70歳の時の七言絶句。春の夕暮れの千波湖を表している。朝比奈泰通は水戸城代。 徳川斉昭 斉昭は自身が選定した『水戸八景』に併せ以下のような漢詩、和歌を創作している。 水戸八景雪時嘗賞僊湖景(雪時嘗て賞す僊湖の景)雨夜更遊青柳頭(雨夜更に遊ぶ青柳の頭)山寺晩鐘響幽壑(山寺の晩鐘は幽壑に響き)太田落雁渡芳洲(太田の落雁は芳洲を渡る)霞光爛漫巌船夕(霞光爛漫たり巌船の夕)月色玲瓏廣浦秋(月色玲瓏たり廣浦の秋)遥望村松晴嵐後(遥かに望む村松晴嵐の後)水門帰帆映高樓(水門の帰帆は高樓に映ず) — 徳川斉昭、水戸烈公詩歌文集236-237p 1句目の「雪時嘗賞僊湖景」が千波湖の雪景色を表している。この漢詩は詩吟、詩舞の題目としても演じられている。詳細は「水戸八景#詩吟『水戸八景』」および「水戸八景#詩舞『水戸八景』」を参照 千重の波よりてはつづく山々をこすかとそみる雪の夕ぐれ — 徳川斉昭、水戸烈公詩歌文集269p 水戸八景の"仙湖暮雪"を詠んだ一首。 藤田東湖 仙湖暮雪天風吹下白琳琅北陌南阡望渺茫獨有二平湖埋不一レ得晩来水色故蒼蒼 — 藤田東湖、新定東湖全集327p(『東湖遺稿』巻之四所収) 雪はるる四方のけしきの夕禜を池のかがみにうつしてそみる — 藤田東湖、新定東湖全集404p(『東湖遺稿』巻之六所収) 斉昭の側近の藤田東湖が水戸八景を題に詠んだ漢詩、和歌の中の2首である。「東湖」という号は生家が千波湖を東に望むことにちなんでいる。 水戸藩の武士では他に、安積澹泊、藤田幽谷も千波湖を詠んだ漢詩を残している。 ウィキソースに以下の原文があります。安積澹泊作『仙湖即興』 安積澹泊作『仙波舟中卽景』 藤田幽谷作『暮春。柳堤晩歸』 吉田松陰 よそにのみ見てややみなん常陸なる仙波が沼の波のけはしさ — 吉田松陰、吉田松陰全集 第8巻387p 吉田松陰が収容されていた江戸伝馬町の牢屋敷から同牢の水戸藩郷士の堀江克之助に宛てた1859年(安政6年)9月6日の手紙の末尾にしたためられた和歌である。堀江克之助は堀江芳之助ともいい、1857年(安政4年)にアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスの襲撃を企てた罪で投獄されていた。そして同牢の松陰と知己を得て獄中で文通をするようになった。この和歌が詠まれた時、水戸藩は安政の大獄で責め立てられている状況下であった。かって水戸を訪れ会沢正志斎の薫陶を受けていた松陰は、この和歌で思い出の"千波湖に険しい波が"の表現で水戸を案じた。松陰はこの手紙の翌月、処刑された。 正岡子規 この家を鴨ものそくや仙波沼 — 正岡子規、『子規全集』第21巻 601p 正岡子規は21歳の1889年4月に友人と共に学友の菊池謙二郎を訪ねる旅に出ており、後に子規はこの旅を『水戸紀行』という紀行文に書いている。『水戸紀行』には当時の水戸の様子が描かれており千波湖のことも随所で触れている。特に立ち寄った偕楽園の好文亭からの眺望については、 二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず 此がけと沼の間に細き道を取りたるは滊車の通ふ處也 此樓のけしきは山あり水あり奥如と曠如を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし — 正岡子規、『水戸紀行』(『子規全集』第13巻 396-397p) と賛美している。 旅の目的であった菊池との出会いは菊池が一足違いで東京に出かけてしまい叶わなかったが、菊池家の者に招かれ子規達は邸内にあがっている。菊池亭は崖上に建ち、庭からは眼下にきらきらと輝く千波湖が見えた。この光景に触れた子規が旅のノートに記したのが上の句である。 長塚節 仙湖小波(三月八日) 月かげをおぼろながらに砕きつつ小波ぞ立つせばの湖 — 長塚節、『長塚節全集』第3巻(歌集) 長塚節は水戸市の茨城県尋常中学校(後の水戸中学校、現在の茨城県立水戸第一高等学校)に入学し和歌の創作を始めた。だが4年生に進学後まもなく体を壊し退学した。この歌はその退学を挟む18歳(1896年)から19歳(1897年)の時期に創られたもので、正岡子規に師事する前の、節の創作人生の最初期の頃の作品のひとつである。 北原白秋 仙波沼ひろき明かりの上にゐて国思ふこころ今朝ももちつぐ — 北原白秋、『渓流唱』(『白秋全集』第11巻) 鳰のこゑ昼すぎの沼にたちにしが寒しともあらぬ濁りさざ波 ※鳰(にお)=カイツブリ — 北原白秋、『渓流唱』(『白秋全集』第11巻) 仙波沼水もぬるむか春早やも河童の子らは抜手切りそむ — 北原白秋、『渓流唱』(『白秋全集』第11巻) 51歳の北原白秋は水戸市より水戸市歌作詞の依頼を受け、1935年2月に水戸を訪れた。水戸に滞在した白秋は偕楽園、弘道館や水戸志士の墓といった場所を巡り、詞の構想を練ると共に、水戸に纏わる短歌も作った。依頼された市歌は白秋の作詞に山田耕筰の作曲で完成。詞に"思へよ尊王"、"偲べよ先徳"、"奮へよこの志気"といった復古的な言葉が並ぶ雄々しいものであった。水戸滞在で作られた短歌は白秋の死後発刊された第9歌集『渓流唱』中の「水戸頌」と題した章下に60首が収録されている。上は「水戸頌」で千波湖を題材にした3首である。"鳰のこゑ昼すぎの沼に…"は白秋が水戸滞在中の宿であった常磐神社下に在った「清香亭」からの情景が詠まれている。 吉野秀雄 夜あさりの鴨群れ翔ちし千波湖に映る夕月光増しくる — 吉野秀雄、『含紅集』(『吉野秀雄全集』第2巻 95p 夕刻、鴨の群れが飛翔した後、暗くなるにつれ湖面の月の輝きが増してゆく千波湖の状景が詠まれている。吉野秀雄が1961年1月に深田久弥らと共に大洗町や親鸞、河田の唯円ゆかりの地への旅行をもとに作られた。歌集『含紅集』に収載されている。
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