漢詩の歴史
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漢詩の原型は周の時代に出来た。五経の1つである中国最古の詩編『詩経』300余編の作品は最も古い形の漢詩である。『詩経』には毎句3から9字の多様な形式が収められ、この形式を発展させたのが楚の時代の『楚辞』である。『楚辞』の賦の形式内容は漢代の楽府の発生を促した。漢代の楽府には、民間で流行した歌謡と文人の創作に 歌謡の二系統があり、郊廟歌、鼓水歌、相和歌に分類される。句の長短が不揃いのものは雑言詩と呼ばれる。また、魏以前に散逸した古い楽府の表題に新たな音節を加えた擬古楽府が生まれた。後に、楽府の声律を定格化し、五字および七字を一句とする詩が生まれた。高祖の大風歌が七言詩の先鞭とされる。 五言詩、七言詩は三国時代の魏の武帝曹操、文帝曹丕、建安の曹植、阮籍、三張(張載、張協、張亢)、二陸(陸機、陸雲)、両潘(潘岳、潘尼)を経て、老荘的な自然主義の謝霊雲や山水派の陶淵明に継承された。この頃、沈約や竟陵派の王融による声律研究が行われ、上宮体、四傑体と称する駢麗体の詩風が生まれた。こういった詩は沈佺期や宋之問といった近体の声律の基礎となり、近体詩(律詩、絶句)は盛唐の李白・杜甫によって完成された。一方、散文的手法を求めた険怪派の韓愈などは通俗性と写実性を求め、晩唐の白居易のような功利派の詩を生み出した。白居易(楽天)の新楽府は、李賀などの唯美派の作風に影響を及ぼした。 唐代の詩のことを唐詩と呼び、唐詩を更に初唐、盛唐、中唐、晩唐と区分けされるようになった。特に盛唐の李白、杜甫の詩は後世「詩は必ず盛唐」と呼ばれるように、模範とされた[要出典]。日本の江戸時代に流行した唐詩選や、中国清代に流行した唐詩三百首等、唐詩の傑作選は広く東アジアで読まれている[要出典]。 宋の神宗の元祐年間になると漢詩が流行し、江西派と南渡派が出現したが、詩よりも詞が流行した。李中主と李後主によって開かれた文運を受けて、北宋では晏殊、欧陽脩、黄庭堅、蘇東坡などが出現し、南宋では詞に散文的要素が加わり、辛稼軒などの通俗派の詞が生じた。 明の時代に入ると、高啓などの北郭の十子、唐粛らの会稽の二粛、趙介など南園の五子、林鴻らの十子、前七子・後七子などが出て、復古主義を主張した。特に、王世貞の復古的作風は文壇の主流となった。 清の時代に入ると、江左の三家(銭謙益・呉偉業・襲鼎孳)に続いて、神韻派(王漁洋)、浙西派、格調派(沈徳潜)、性霊派(袁随園)の詩人が登場した。 現代中国でも漢詩人は少なからずおり、魯迅、毛沢東等、日本の市販の漢詩集にも採られている詩人は多い[要出典]。
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