ほうりゅう‐じ〔ホフリユウ‐〕【法隆寺】
読み方:ほうりゅうじ
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の総本山。南都七大寺の一。もと法相(ほっそう)宗。推古天皇15年(607)に聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、天智天皇9年(670)焼失したが再建されたとみられている。現存する世界最古の木造建築で、伽藍(がらん)は西院と東院に分かれ、金堂・五重の塔・講堂・南大門・中門・夢殿・回廊などほとんどの建物が国宝。また、釈迦三尊・薬師如来坐像・阿弥陀如来・百済(くだら)観音・救世(ぐぜ)観音立像・玉虫厨子(ずし)などの国宝のほか、絵画遺品や伎楽面・百万塔などの寺宝も多い。金堂の壁画は昭和24年(1949)の火災で焼失したが、のち復元。平成5年(1993)「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産(文化遺産)に登録された。法隆学問寺。斑鳩寺。
ほうりゅうじ 【法隆寺】
法隆寺
法隆寺
法隆寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 02:39 UTC 版)
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる[1]。
注釈
- ^ 飛鳥時代から、白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、南北朝、江戸時代までの月日は、旧暦で記載。
- ^ 1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。ただし、これら3躯のうち中尊像と左脇侍像(観音菩薩)のみが鎌倉時代の仏師康勝の作で、右脇侍像は時代も作風も異なる奈良時代作の観音菩薩像であった。2009年に前述の「金銅弥陀三尊像」は2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。本来の右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に盗難に遭って日本国外に流出し、パリのギメ美術館の所蔵となっている。なお、現在、金堂にある右脇侍像はギメ美術館像の模造である。
- ^ 12躯のうち、戌神像、亥神像の2躯は他の10躯とは別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「木造十二神将立像 十二躯の内亥神戌神ヲ除ク(西円堂安置)十躯」(1906年指定)、「木造十二神将立像 戌神、亥神(西円堂安置)二躯」(1929年指定)。
- ^ 中尊像と両脇侍像は別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「乾漆観音勢至菩薩立像」(1902年指定)、「乾漆阿弥陀如来坐像」(1909年指定)。
- ^ 1902年に6躯一括で重文(旧国宝)に指定されたものだが、誕生釈迦仏と観音像2躯は1903年盗難に遭い、寺に残るのは観音像3躯のみである。
- ^ 旧金堂所在、奈良時代作。1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として重要文化財(旧国宝)に指定されたうちの1躯。この「金銅弥陀三尊像」は2009年に2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。
- ^ 「鼉」(だ)は、「口」を横に2つ並べ、その下に「田」「一」「黽」。
- ^ 1935年に巻七と巻九が重要文化財(旧国宝)に指定。当時の所有者は内藤湖南(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.212)。巻一は1986年に追加指定(昭和61年6月6日文部省告示第89号)
- ^ 1958年に661巻が重要文化財に指定。1986年に昭和資財帳調査で確認された265巻を追加指定(うち36巻は附指定)。附の勧進状は1970年追加指定。(昭和61年6月6日文部省告示第89号、昭和45年5月25日文部省告示第218号)
- ^ 称徳天皇の発願によって制作された「百万塔」は、昭和資財帳調査の結果、法隆寺内に塔身部4万5千余基、相輪部2万6千余基が存在することが判明した。このうち重文指定を受けているのは1908年に指定された102基のみである(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.224, 270)。
出典
- ^ 『国史大辞典』第12巻、p.662(「法隆寺」の項)
- ^ a b 【美の美】聖徳太子のまなざし(上)釈迦三尊像『日本経済新聞』朝刊2016年10月23日(16-17面)。
- ^ (高田、1987)p.4
- ^ (梶谷、2008)p.42
- ^ a b (高田、1987)pp.26 - 28
- ^ (高田、1987)p.28
- ^ (鈴木、1994)pp.256 - 257
- ^ (鈴木、2008)pp.37 - 40
- ^ (高田、1987)p.12
- ^ 『国宝法隆寺展』図録、p,228
- ^ (曾根、2007)pp.10 - 18
- ^ 木本好信「橘古那可智の入内と藤原氏」『奈良平安時代史の諸問題』、和泉書房、2021年、P145.
- ^ 災害から文化財を守る会PDF
- ^ NHK『戦争証言アーカイブス』日本ニュース戦後編 第73号 1947年(昭和22年)6月3日
- ^ 斑鳩町が協定 法隆寺を災害時避難所に[リンク切れ]
- ^ 「斑鳩町と災害協定 - 寺内一部を避難所に提供/法隆寺」奈良新聞ニュースサイト(2013年12月11日)2019年6月18日閲覧。
- ^ 「法隆寺金堂壁画、初の科学調査 66年前に焼損 公開の可能性検討」 朝日新聞デジタル(2015年11月12日)2019年6月18日閲覧。
- ^ “法隆寺の駐車場にある植え込み、実は古墳でした 奈良大学などが確認:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2023年9月7日). 2023年9月9日閲覧。
- ^ 家屋倒壊が続出、恐怖に包まれた大阪『大阪毎日新聞』昭和11年2月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p204-205 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ (石田、1959)、pp.106 - 107
- ^ 北魏#日本との関わり。
- ^ 『黒川真頼全集』第3美術篇,工芸篇,196~218頁「法隆寺建築説」,国書刊行会,明治43. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ (石田、1959)、pp.107 - 109
- ^ (大橋、1998)、pp.16 - 17
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- ^ (大橋、1998)、pp.23 - 28
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- ^ (鈴木、1994)、pp.256 - 257
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- ^ 高田良信 他, 「法隆寺」の項, 『国史大辞典』, 吉川弘文館, 1979-1997.
- ^ 「奈良の法隆寺から最古の壁画片 高熱で変色、焼失・再建説裏付け」朝日新聞ニュースサイト(2004年12月10日)2019年6月18日閲覧。
- ^ 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.40
- ^ 武澤秀一『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書、2006年)
- ^ 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.39
- ^ 法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」[リンク切れ]
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- ^ 武澤、2006年。
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- ^ 「法隆寺、金堂壁画の公開提言へ 21年めどに、耐震性問題なし」(共同通信47News(2019年1月28日)2019年6月18日閲覧。
- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』2号(朝日新聞社、1997); 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫、1989)、p.299
- ^ “文化審議会答申 ~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について~”. 文化庁. 2020年3月19日閲覧。
- ^ 令和2年9月30日文部科学省告示第116号
- ^ 像内納入品は平成21年7月10日文部科学省告示第102号により追加指定。平成25年6月19日文部科学省告示第117号で員数訂正。
- ^ 平成27年9月4日文部科学省告示第142号
- ^ 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.266 - 267)。
- ^ 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.160)。
- ^ a b c 『法隆寺国宝保存工事報告書 第4冊』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2019年8月16日閲覧。
- ^ a b 西円堂・薬師如来像 - 法隆寺、2019年8月16日閲覧。
- ^ 『日本経済新聞』朝刊2016年10月30日【美の美】聖徳太子のまなざし(中)。
- ^ 奈良交通サイト
- ^ 法隆寺公式サイト
- ^ お逮夜秘仏と供物を堪能!聖徳太子のご命日にちなんだ法隆寺お会式(Lineトラベルjp)
- ^ 法隆寺公式サイト
法隆寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
現存する日本最古の木造建築は、斑鳩寺ともいわれ聖徳太子建立607年頃の、奈良の法隆寺である。現存する法隆寺西院伽藍(金堂含む)は、一度火災で焼失した後、7世紀末頃に再建されたものであることが定説となっているが、法隆寺金堂の中の扉が、一応現存する最古の扉といえる。しかし、昭和修理の時に火災で初層内部を焼損し、二枚を張り合わせて一枚の扉に復元されている。当初の扉は、高さ3m幅約1m厚さ約10cmの、檜(ひのき)の節なしの一枚板であった。 金堂よりおくれて奈良時代に建立された、金堂裳階の四面の扉は現存している。やはり一枚板で、高さ2.7m幅1m厚さ約8.5cmの大きさで、下部に唄ばい金銅の飾り金具を打ち上部に連子窓を設けている。この連子窓の九本の連子は、一枚板から彫りだしたものであるという。大変な労力を費やした扉である。 法隆寺建立から約150年後に創建された鑑真ゆかりの寺唐招提寺(759年創建)の金堂は、鑑真の没後、8世紀末頃の建築と推定される。唐招提寺金堂の扉は、幅の狭い板を五枚縦に並べて、裏桟に釘どめした板桟戸構造になっている。扉の表面に出た釘頭を隠す為に、饅頭型の木製漆塗りの飾りを付け、扉全体の変形を防止するため金銅八双金具(装飾と補強を兼ねた建築金具の一種)を、取り付けている。 奈良時代の住宅の一部で現存するものは、やはり法隆寺の東院伝法堂である。伝法堂は、元来聖武天皇の橘夫人の邸宅の一部であったものが聖徳太子の斑鳩宮の跡である法隆寺東院に寄進されたものである。仏堂にするため一部改造されているが、当時の寺院建築にみられるような、板敷を除けば唐の強い影響を受けた建築構造となっている。 伝法堂の前身建物は妻入り(屋根の妻側を正面とする)で、平面構造は、桁行(奥行)三間、梁行(幅)四間の壁と扉で閉ざされた主室部分と、桁行二間梁行四間の開放的部分とそれにつづく広い簀子(すのこ)敷から構成されている。空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっている。伝法堂は、当時の建築としては珍しく、柱に礎石を用いているが、奈良時代の平城京では、ほとんどの建物が古墳時代と同様な掘立柱であった。 これらの建物は梁行二間の母屋(もや:主構造が柱と屋根の屋)だけで作られており、廂(ひさし)がまだ発達していない簡素な様式であった。
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