法隆寺の記録と伝来・旧蔵説とは? わかりやすく解説

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法隆寺の記録と伝来・旧蔵説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:36 UTC 版)

百済観音」の記事における「法隆寺の記録と伝来・旧蔵説」の解説

法隆寺根本史料である天平19年747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音相当する仏像についての記載はない。 11世紀後半成立の『金堂日記』には、当時法隆寺金堂にあった仏像に関する詳細な記録があるが、ここにも百済観音に関する言及はない。鎌倉時代法隆寺の僧・顕真による『聖徳太子伝私記』は像名を記して百済観音には触れていない。 この両記録の不記に対して東野治之は、法隆寺旧蔵説を唱え、『法隆寺資財帳』は菩薩ないし天部の像についての総計記載内訳脱落していて、様式金銅仏像灌頂幡類似しているので、この脱落部分記載されていたとする承暦2年の『金堂日記』は、金銅像盗難多かったことを懸念して作成され金銅仏像目録であるとして、木造四天王像菩薩像記録されていないとする。 百済観音該当する思われる像の存在記録確認できるのはようやく近世になってからである。元禄11年1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像七尺五分」とあるのが、像高からみて百済観音に当たると推定され、これが百済観音存在記録する最古文献とされている。このため作風違いもあり、造像当初から法隆寺にあったものではなく後世他の寺院から移されたものとの説がある。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明である。 『法隆寺諸堂仏躰数量記』はこの「虚空蔵菩薩像」を「百済国から渡来した天竺インド)製の像である」としている。延享3年1746年)、法隆寺の僧・良訓(りょうきん)が著した古今一陽集』にも「虚空蔵菩薩」とあり、「この像の由来古記にはないが、古老伝えるところでは異国将来の像である」と述べていて、当時すでにこの像の由来不明であったことがわかる。この像の旧所在については飛鳥橘寺からの移送とする説。156世紀荒廃した法隆寺に、斑鳩移設前の中宮寺から、相当数寺宝法隆寺移された(良訓『古今一陽集』)そのうち1つ推定する高田良信法隆寺208管主)の説、などがある。だが、いずれも確証はなく、本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されいたものか、正確なことは全く不明である。

※この「法隆寺の記録と伝来・旧蔵説」の解説は、「百済観音」の解説の一部です。
「法隆寺の記録と伝来・旧蔵説」を含む「百済観音」の記事については、「百済観音」の概要を参照ください。

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