法隆寺勧学院から大徹堂まで
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「澤木興道」の記事における「法隆寺勧学院から大徹堂まで」の解説
1908年(明治41年)12月、法隆寺勧学院に入り、佐伯定胤に唯識を学んだ。これより各地の道場を転々とし、「移動僧堂」「宿無し興道」と称された。1912年(明治45年)春、初めて永平寺眼蔵会に上山。そして12月には法隆寺勧学院を去って松阪・養泉寺僧堂単頭に赴任。翌1913年(大正2年)5月、奈良県吉野郡下北山村正法寺にて丘宗潭に初相見。1914年(大正3年)春、静岡・安養寺結制にて丘老師の西侍をつとめる。そして8月、養泉寺を去る。初秋、常福寺に入り、坐禅に明け暮れる。1916年(大正5年)5月、丘宗潭の命で熊本・大慈寺僧堂講師となる。そして旧制第五高等学校生徒にも坐禅を指導する。1921年(大正10年)8月17日、丘宗潭が遷化したので、翌1922年(大正11年)春、大慈寺を去って熊本市楠木町に借家を借り、それを「大徹堂」と名づけた。さらに翌年には熊本駅裏の万円山に移り、請われるままに参禅会に出かける。
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