法隆寺と四天王寺の対抗意識とは? わかりやすく解説

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法隆寺と四天王寺の対抗意識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)

太子信仰」の記事における「法隆寺と四天王寺の対抗意識」の解説

法隆寺四天王寺は古い史料から一貫して太子建立認識され、現在まで至っている。平安時代太子信仰盛り上がり見せると、法隆寺四天王寺互い意識して影響与えながら信仰の中心地を競い伝承増幅させてゆく。 まず、寛弘4年(1007年)に四天王寺で『四天王寺縁起』(根本本)が「発見」される。その巻末には「乙卯歳(595年)に太子著した」と記載されるが、実際発見されとされる頃に四天王寺僧の慈運によって製作されたと考えられている。『四天王寺縁起』は、すでに世に知られていた『伝暦』(原撰本)を中心に様々な太子伝を取りこんで作成されたと考えられ、「四天王寺敬田院が太子まつわる聖地であり、その西門先に広がる海の彼方に極楽浄土在る」という内容記されていた。 これに対抗して法隆寺製作されたと考えられるのが『四節文』である。『四節文』は「太子没する直前推古天皇27年(619年)に残された遺願で、法隆寺の綱封秘蔵される」とされるが、人に見せる事を前提とした原本作成されなかったようで、法隆寺写本読み聞かせにより広めていったとされるその内容は、法隆寺僧にのみ『三部経』の講説を許すなど、法隆寺特別な寺院であることを強調するものであった。 『四節文』の流布直後に、10世紀成立の『伝暦』(原撰本)を増補し作成されたと考えられるのが『伝暦』(現行本)である。『伝暦』(現行本)は『四天王寺縁起』(根本本)と『四節文』の両方引用しながら、前者を「本願縁起」と記述して高く評価しており、四天王寺僧が作成した推測されている。なお、『伝暦』(現行本)は、寛弘5年(1008年)に写本作成されており、前年の『四天王寺縁起』(根本本)の作成からのごく短期間上記やり取りなされた考えられ、両寺が信仰の中心地を激しく競い合った事を示していると考えられる11世紀半ばから15世紀に至るまで、数多くの『聖徳太子未来記』(以下、未来記)が「出現」し続けた。『未来記』とは太子予言記したとされる記文で、最も古いものは天喜2年(1054年)に太子廟(叡福寺)で出現した太子御記文』である。内容は「太子没後430年経てこの記文出現し国王大臣が寺や塔を造り仏法広める」ことを太子予言したとする趣旨だが、発見され当時太子仮託して作成したのである。この記文発見は『古事談』などの史料にも記されており、四天王寺通じて朝廷報告され四天王寺別当検証した記録されている。この後多くの『未来記』が太子廟の近辺繰り返し出現する。喜録3年(1228年)に出現した太子御文』を実見した藤原定家は『明月記』に、「身分の低い者によって記されたもので本物であるか疑わしい」とし「新し記文毎年のように出現しいるようだ」と記している。こうした未来記』の根源は『書紀推古天皇即位前記条に記される太子前もって未来を知ることができた(兼知未然)」という記述求められる。『未来記』の製作者はいずれ四天王寺関係者であった考えられ太子信仰高めて経済的な援助を得るために慣例的に作成されたと考えられる12世紀頃には、それぞれ四天王寺園城寺法隆寺興福寺影響下に置かれ権力者強く結びついた権門寺院により霊場化が進められていく。13世紀前半には、法隆寺東院伽藍整備され承久元年(1219年)に絵殿と舎利殿建て替え工事完了した法隆寺は、高まりをみせていた太子信仰目を付け、すでに信仰の中心となっていた四天王寺対抗すべく、伽藍整備行った考えられる。 これに対抗すべく、嘉禄3年(1227年)に四天王寺著されたのが『四天王寺秘決』である。『四天王寺秘決』は太子四天王寺の関係を纏めたもので、四天王寺権威付けることが目的とされるなかでも四天王寺別院天武天皇冷泉院朱雀院鳥羽院勅願であることを強調しつつ、完成したばかりの法隆寺絵殿の絵と四天王寺の絵を対比するように記述しており、その対抗意識伺える。 『四天王寺秘決』の少し後に、法隆寺顕真著したのが『古今目録抄』(以下、目録抄)である。『目録抄』は、四天王寺作成された『四天王寺縁起』や『未来記』の記述踏襲しつつ、法隆寺行われている行事について詳細に説明をしている。また、四天王寺秘決』は著者名がなかったが、顕真は『目録抄』に名を記したうえで太子舎人調子丸の子孫を自称し太子信仰担い手としての正当性主張した。 以上のように、両寺は互いに意識して相手側の太子信仰取り込みつつ、そこに自らの正当性強化する伝承付け加えて太子伝を膨らませていくことで、太子信仰高揚させていったとされる。両寺の働きもあって太子700年忌にあたる元享2年(1322年)に、太子信仰最盛期迎えた

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