法隆寺と四天王寺の対抗意識
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「太子信仰」の記事における「法隆寺と四天王寺の対抗意識」の解説
法隆寺と四天王寺は古い史料から一貫して太子の建立と認識され、現在まで至っている。平安時代に太子信仰が盛り上がりを見せると、法隆寺と四天王寺は互いを意識して影響を与えながら信仰の中心地を競い、伝承を増幅させてゆく。 まず、寛弘4年(1007年)に四天王寺で『四天王寺縁起』(根本本)が「発見」される。その巻末には「乙卯歳(595年)に太子が著した」と記載されるが、実際は発見されたとされる頃に四天王寺僧の慈運によって製作されたと考えられている。『四天王寺縁起』は、すでに世に知られていた『伝暦』(原撰本)を中心に様々な太子伝を取りこんで作成されたと考えられ、「四天王寺の敬田院が太子にまつわる聖地であり、その西門の先に広がる海の彼方に極楽浄土が在る」という内容が記されていた。 これに対抗して法隆寺で製作されたと考えられるのが『四節文』である。『四節文』は「太子が没する直前の推古天皇27年(619年)に残された遺願で、法隆寺の綱封蔵に秘蔵される」とされるが、人に見せる事を前提とした原本は作成されなかったようで、法隆寺は写本や読み聞かせにより広めていったとされる。その内容は、法隆寺僧にのみ『三部経』の講説を許すなど、法隆寺を特別な寺院であることを強調するものであった。 『四節文』の流布の直後に、10世紀成立の『伝暦』(原撰本)を増補して作成されたと考えられるのが『伝暦』(現行本)である。『伝暦』(現行本)は『四天王寺縁起』(根本本)と『四節文』の両方を引用しながら、前者を「本願縁起」と記述して高く評価しており、四天王寺僧が作成したと推測されている。なお、『伝暦』(現行本)は、寛弘5年(1008年)に写本が作成されており、前年の『四天王寺縁起』(根本本)の作成からのごく短期間で上記のやり取りがなされたと考えられ、両寺が信仰の中心地を激しく競い合った事を示していると考えられる。 11世紀半ばから15世紀に至るまで、数多くの『聖徳太子未来記』(以下、未来記)が「出現」し続けた。『未来記』とは太子の予言を記したとされる記文で、最も古いものは天喜2年(1054年)に太子廟(叡福寺)で出現した『太子御記文』である。内容は「太子没後430年を経てこの記文が出現し、国王や大臣が寺や塔を造り仏法を広める」ことを太子が予言したとする趣旨だが、発見された当時に太子に仮託して作成したものである。この記文の発見は『古事談』などの史料にも記されており、四天王寺を通じて朝廷に報告され、四天王寺別当が検証したと記録されている。この後も多くの『未来記』が太子廟の近辺で繰り返し出現する。喜録3年(1228年)に出現した『太子石御文』を実見した藤原定家は『明月記』に、「身分の低い者によって記されたもので本物であるか疑わしい」とし「新しい記文が毎年のように出現しているようだ」と記している。こうした『未来記』の根源は『書紀』推古天皇即位前記条に記される「太子は前もって未来を知ることができた(兼知未然)」という記述に求められる。『未来記』の製作者はいずれも四天王寺の関係者であったと考えられ、太子信仰を高めて経済的な援助を得るために慣例的に作成されたと考えられる。 12世紀頃には、それぞれ四天王寺は園城寺、法隆寺は興福寺の影響下に置かれ、権力者と強く結びついた権門寺院により霊場化が進められていく。13世紀前半には、法隆寺の東院伽藍が整備され、承久元年(1219年)に絵殿と舎利殿の建て替え工事が完了した。法隆寺は、高まりをみせていた太子信仰に目を付け、すでに信仰の中心地となっていた四天王寺に対抗すべく、伽藍整備を行ったと考えられる。 これに対抗すべく、嘉禄3年(1227年)に四天王寺で著されたのが『四天王寺秘決』である。『四天王寺秘決』は太子と四天王寺の関係を纏めたもので、四天王寺を権威付けることが目的とされる。なかでも、四天王寺の別院が天武天皇・冷泉院・朱雀院・鳥羽院の勅願であることを強調しつつ、完成したばかりの法隆寺絵殿の絵と四天王寺の絵を対比するように記述しており、その対抗意識が伺える。 『四天王寺秘決』の少し後に、法隆寺の顕真が著したのが『古今目録抄』(以下、目録抄)である。『目録抄』は、四天王寺で作成された『四天王寺縁起』や『未来記』の記述を踏襲しつつ、法隆寺で行われている行事について詳細に説明をしている。また、『四天王寺秘決』は著者名がなかったが、顕真は『目録抄』に名を記したうえで太子の舎人調子丸の子孫を自称し、太子信仰の担い手としての正当性を主張した。 以上のように、両寺は互いに意識して相手側の太子信仰を取り込みつつ、そこに自らの正当性を強化する伝承を付け加えて太子伝を膨らませていくことで、太子信仰を高揚させていったとされる。両寺の働きもあって太子700年忌にあたる元享2年(1322年)に、太子信仰は最盛期を迎えた。
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