東院伽藍
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東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。 夢殿(国宝) - 奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年(737年)の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。基壇は二重で、最大径が11.3メートル。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる唐渡来の手法である。観音菩薩立像(救世観音、国宝) - 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。 行信僧都坐像(国宝) - 奈良時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。吊り目の怪異な容貌が特色。 道詮律師坐像(国宝) - 平安時代初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。 聖観音立像(重要文化財) - 救世観音の背後に立つ。 絵殿(重要文化財) - 鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府北部など)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた『聖徳太子絵伝』の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、1878年(明治11年)に皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。絵殿には江戸時代に描かれた『聖徳太子絵伝』が代わりに飾られている。 舎利殿(重要文化財) 廻廊(重要文化財) 礼堂(重要文化財) 伝法堂(国宝)- 切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。橘夫人(伝承では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)とされるが、現在では孫にあたる聖武天皇夫人・橘古那可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったと分かった。堂内には多数の仏像を安置するが通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重要文化財)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重要文化財)を安置する。 東院鐘楼(国宝) - 鎌倉時代建立。 四脚門(重要文化財) - 鎌倉時代建立。 南門(重要文化財) - 別名は不明門。長禄3年(1459年)建立。
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