東閭聖母像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 15:23 UTC 版)
1901年に東閭聖堂の祭壇上に設置された聖母画は、ジロン神父が一人の修道女の絵師に依頼して描かせたもので、「東閭之後聖母像」と称されている。1908年、ジロン神父は転任してフラマン神父(P.Flament, C.M, 中国名: 雷孟諾)が小教区の司祭に着任すると、祭壇上に設置された聖母像は人物が多く優美さや荘厳を欠き、祭壇に祭るのに相応しくないと考えた。フラマン神父が上海に旅行した際、上海滞在中のフランスの画家を東閭の聖母画を新たに作成させるために東闆村に招聘した。聖母の容貌は西太后の油絵による肖像画をモチーフにし、聖母が崇高で穏やかでかつ華やかなことを明確に示すものとなった。また聖母は中国皇后の衣服を着用し真珠と翡翠の金冠を戴き、玉座の上に座す構造とされ、幼子イエズスは中国皇太子の衣服と雲鞋、錦袍を纏い、頭には金冠を戴き、玉座の左側に立っていた。聖母像の上部にはまた『天主聖母東閭之后,為我等祈』(天主の御母、東閭の元后、我等の為に祈り給え)という標題が書かれていた。この聖母像は後に1924年の全国司教会議で中国の聖母に指定されたものであり、その姿は中国に広く流布することとなった。しかし1966年から始まった文化大革命では批判対象となり破壊されている。1989年に東閭で再建された聖母大聖堂に設置されている聖母画は、旧来の姿を映した写真から河北省饒陽県の信徒の絵師が原寸復元したものである。
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