東阿の策士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 04:16 UTC 版)
身長は八尺三寸(約191cm)という巨漢で、見事な髭を蓄えていた。初めは程立という名前であった。若い頃、泰山に登り両手で太陽を掲げる夢をよく見たという(『魏書』)。 黄巾の乱が勃発すると、東阿県丞の王度が賊に同調し、放火や略奪を働き、県令は城壁を越えて逃走し行方知れずとなり、官吏や民衆は家族を連れて東の山に避難していた。程立は王度の様子を偵察したところ、王度が城を保つことができず、外に駐屯していることが分かった。そこで程立は豪族の薛房らに対し、「逃亡した県令を探し出し、城を堅守すれば勝てる」と勧めた。薛房らは同意したが、東の山に避難した官吏と民衆は協力しようとしなかった。程立は「愚民は事を計れない」と言い、官民を計略にかけて城に呼び戻した。程立は逃亡した県令の所在も探し当て、ともに城を守った。王度が攻撃してきたが、程立は官吏と民衆を率いて城から出撃し、これを敗走させた。これにより東阿県は安全となった。 初平年間に、兗州刺史である劉岱の招きを受けたが応じなかった。袁紹と公孫瓚が対立すると、劉岱はその帰趨に迷い、程立を呼び寄せて対応を相談した。程立は状況を分析し、袁紹に味方するよう勧めた。果たして公孫瓚が袁紹に打ち破られると、劉岱は改めて程立を招き、騎都尉に任命しようとしたが、程立は病気を理由にこれを拒絶した。 まもなく劉岱が青州黄巾賊の戦いで戦死すると、代わって曹操が兗州を支配することになった。曹操が程立を招くと、程立はこれに応じた。郷里の人には行動が矛盾するといぶかしがられたが、程立は笑ってとりあわなかったという。曹操は程立と語らって気に入り、寿張県令を代行させた。
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