橋本進吉とは? わかりやすく解説

はしもと‐しんきち【橋本進吉】

読み方:はしもとしんきち

[1882〜1945国語学者。福井生まれ日本語歴史的研究に力をそそぎ、音韻史分野では上代特殊仮名遣い解明また、室町時代末の音韻体系キリシタン資料によって再構した。文法研究分野では「文節」の概念理論化し、その文法論学校文法採用され影響力きわめて大きい。著「国語学概論」「古代国語音韻について」「吉利支丹教義研究」「新文典別記」など。


橋本進吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 03:49 UTC 版)

橋本 進吉
人物情報
生誕 (1882-12-24) 1882年12月24日
日本福井県敦賀市
死没 (1945-01-30) 1945年1月30日(62歳没)
日本東京都
国籍 日本
出身校 東京帝国大学
学問
時代 大正昭和
研究分野 言語学
国語学
研究機関 東京帝国大学
指導教員 上田萬年
主な指導学生 有坂秀世
岩淵悦太郎
大野晋
亀井孝
金田一春彦
服部四郎など
学位 文学博士
主な業績 文献重視の日本語研究
音韻史研究の大枠を完成
主要な作品 #著書
学会 国語学会
テンプレートを表示

橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本言語学者国語学者

経歴

東京帝国大学言語学科(1905年)。
前列右から小倉進平伊波普猷、神田城太郎。中列右から保科孝一八杉貞利上田万年藤岡勝二新村出。後列右から橋本進吉、徳沢(徳沢健三?)、後藤朝太郎金田一京助
伊波普猷生誕百年記念会編『伊波普猷 : 1876-1947 生誕百年記念アルバム』1976年、19頁。

1882年、福井県敦賀市医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)[1]卒業論文は「係り結びの起源」。

文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年日本文学報国会国文学部会長。1944年国語学会会長。

1945年、病没。墓所は郷里の敦賀市の来迎寺にある[1]

没後、岩波書店(全12巻)で「橋本進吉著作集」が、岩波文庫で「古代国語の音韻に就いて」が刊行された。

業績

橋本の学風は徹底的な文献学に基づいている[2]。この「文献主義」とも形容される姿勢は、『校本万葉集』の編纂などに表れており、門下生に有力な研究者がいたこともあって[注 1]、後世における日本語学の主流となった[2]。橋本の学風は実証的であると同時に組織的であり、研究するに当たっては、その研究史を徹底的に調べ、資料典籍の考証、伝記の調査に努力を惜しまなかった[3]

日本語における音韻歴史研究をしたほか、上代特殊仮名遣を体系づけた[4]。上代特殊仮名遣は、橋本が独立に発見し、その後石塚龍麿の『仮字遣奥山路』の記述の価値を見いだし、顕彰したとされる[5]。これについては、水谷静夫が論じているほか[6]21世紀に入っての研究で、本居宣長石塚龍麿の研究に従っていることが確認されている[7][8]。1942年に天津教不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について狩野亨吉とともに検察側証人として出廷した際には、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定した。

橋本は「文節」を重んじ、文法体系は「橋本文法」と称された。現代日本語文法での四大文法の一つとして重要視され、学校文法への影響も大きく[9]学界だけではなく教育界にも大きな影響を与えた[10]

著書

脚注

注釈

  1. ^ 著名な教え子に有坂秀世岩淵悦太郎大野晋亀井孝服部四郎林大松村明などがいる[2]

出典

  1. ^ a b 肥爪周二 (2016), p. 120.
  2. ^ a b c 肥爪周二 (2016), p. 122.
  3. ^ 服部四郎 (1992), pp. 380–382(初出は服部四郎 1974
  4. ^ 肥爪周二 (2016), pp. 122–123.
  5. ^ 肥爪周二 (2016), pp. 120–121.
  6. ^ 水谷静夫 (1974), pp. 11–14.
  7. ^ 安田尚道 (2023), pp. 43–65(初出は安田尚道 2003
  8. ^ 安田尚道 (2023), pp. 77–95(初出は安田尚道 2004
  9. ^ 益岡隆志仁田義雄郡司隆男金水敏『文法』岩波書店〈岩波講座 言語の科学 5〉、1997年11月、[要ページ番号]頁。「橋本進吉の文法論はすでに述べたように学校文法に採用されているので、彼の構文論は現在もっとも多くの日本人に知られているといえる。」 
  10. ^ 肥爪周二 (2016), p. 123.

参考文献

著書
論文
  • 安田尚道「石塚龍麿と橋本進吉:上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」『國語學』第54巻第2号、2003年4月、1-14頁。 
  • 安田尚道「橋本進吉は何を発見しどう呼んだのか:上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」『國語と國文學』第81巻第3号、2004年3月、1-15頁。 
  • 金田一春彦「橋本進吉伝(1)」『日本語学』第2巻第2号、明治書院、1983年2月。 
  • 金田一春彦「橋本進吉伝(2)」『日本語学』第2巻第3号、明治書院、1983年3月。 
  • 金田一春彦「橋本進吉伝(3)」『日本語学』第2巻第4号、明治書院、1983年4月。 
  • 肥爪周二「橋本進吉」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、120-123頁。 
  • 服部四郎「わが師 橋本進吉先生」『学士会会報』第724号、学士会、1974年7月。 

関連項目

外部リンク


橋本進吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:02 UTC 版)

上代特殊仮名遣」の記事における「橋本進吉」の解説

宣長石塚によるこの研究長く評価されずに埋もれていたが、橋本進吉によって注目され1917年、『帝国文学』に発表され論文国語仮名遣研究史一発見――石塚龍麿仮名遣奥山路について――」以降近代日本国語学界でさかんに論じられるようになった。なお橋本以後研究では石塚龍麿指摘したチの使い分け認めておらず、エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(および濁音がある場合はその濁音)を古代特有の使い分け見なし、この使い分けを「上代特殊仮名遣」と命名した。なお、「モ」の使い分け『古事記』にのみ見られ、これは『日本書紀』などの後世の史料よりもさらに古い時代使い分け残存しているものと考えられている。 「野」は国学者修正によってかつては「ぬ」と読まれていたが、これは「怒」などの万葉仮名用いられていることによっていた。橋本はこれを戻し「ノ」甲類位置づけ、「ヌ」に2種あるのではなく「ノ」に2種あるものとした。 橋本音価推定にはきわめて慎重で、断定的なことは述べなかったが、「国語音韻変遷」ではイ・エ・オの片方は [i]・[e]・[o]で、もう一方は [ï]・[əi] または [əe]・[ö] という母音持っていたのではないかという仮説示している。また、橋本による再発見については、水谷静夫が『国語学五つ発見再発見』の中でも扱っている。

※この「橋本進吉」の解説は、「上代特殊仮名遣」の解説の一部です。
「橋本進吉」を含む「上代特殊仮名遣」の記事については、「上代特殊仮名遣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「橋本進吉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



橋本進吉と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「橋本進吉」の関連用語

橋本進吉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



橋本進吉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの橋本進吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの上代特殊仮名遣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS