権威の強化時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:37 UTC 版)
ヘロデがユダヤの王として支配した時代は大きく3つに分けられ、第1期はBC37-BC25年の権威の強化時代、第2期はBC25-BC13年の全盛期、第3期はBC13-BC4年の晩年の家庭の悲惨な時期になる。 名実的にユダヤの王として支配を始めたヘロデには当初、国内でユダヤの民衆・貴族・旧王家のハスモン家の3つの勢力、国外ではエジプトの女王クレオパトラと争うことになった、民衆に対しては好意と懲罰による飴と鞭の他、民衆に多いファリサイ派に顔が効くポリオンとその弟子のサマイアスという名士による説得も行った。貴族層に対してはアンティゴノス派の残党を調べ、この派閥の指導者と見た45名を粛清してその財産を没収した(これは自分の後援者であるアントニウスの機嫌取りの資金にもなった)。ハスモン家に対してはヘロデも一時は下手に出ており、パルティアに連れて行かれたヒルカノスを交渉して帰還させ、敬意をもって扱い「父」と呼ぶほどの扱いをした他、ヒルカノスが律法上大祭司に復帰できないので、代わりに外国から呼び寄せたアナネロス(アナネル・ハナヌエルとも)を据えた事についてヒルカノスの娘であるアレクサンドラたちが不満を抱いていると知ると、アナネロスを解任させてアレクサンドラの息子アリストブロス(3世)を大祭司にした。 これによって一度は両者の関係は改善したものの、アレクサンドラやマリアムネ達を警戒したヘロデが彼女達も見張らせたこと、さらにアリストブロスが紀元前35年の秋頃、ヘロデの宮殿のプールで溺死したことで両者の中は破局的になり、最終的にヘロデは前政権ハスモン朝の血を引くものをすべて抹殺することになった。 このアレクサンドラとつながりがあったエジプトのクレオパトラとの対立も深刻で、前述のアリストブロス死亡についてクレオパトラ経由でアントニウスに連絡がいき、「この件に関してラオディキア(シリア北西部の港町)に自分が行くのでそこに来て釈明せよ」と、ヘロデは処刑を覚悟でそこに向かうことになった(結果はアントニウスがヘロデのことを信用してくれ無罪とされた)、このアントニウスへの弁明の留守中にも早くもトラブルが起き、アントニウスの怒りを買ってヘロデが殺されたという誤報が伝わったため、アレクサンドラとマリアムネは彼女たちの世話(監視)を任せされていたヘロデの叔父(妹のサロメの夫なので義弟でもある)のヨセフスを言いくるめて近くのローマ軍の陣地に逃亡を図ろうとし、誤報と知って中止したものの逃亡計画はサロメとヘロデの母に発覚しており、サロメは夫のヨセフスがマリアムネと浮気しているとまで告発したためヘロデは両者を問い詰めたところ、ヨセフスに告げた前述のもしもの際の策までマリアムネが知っていたところからヘロデは関係があって密告したと判断し、マリアムネには思いとどまったものの叔父を容赦なく処刑した。さらに、これと別件でクレオパトラがアントニウスの寵愛を受けたことで中東付近の領地獲得を求めた結果、ユダヤとアラビア地方の一部がエジプト領に加えられることになり、エジプト沿岸部からツロの北のエレウテロス川に至るまでのパレスチナ沿岸部の都市(ツロとシドンは除く)を手に入れた他、ヘロデの領地だった地域のうちエリコはクレオパトラの物にされたなど、ヘロデは一時自分の元に立ち寄ったクレオパトラの暗殺も考えたが友人たちに成功してもアントニウスの怒りを買うだけだと止められてやめたとされる。 だが、最終的にこのクレオパトラの領地となった中東地域の税の徴収を任されたことが、ヘロデにとって幸運につながった。 アラブの王マルコス(1世)もヘロデと同様にクレオパトラに金を支払う必要があったのだが、彼はこれを支払わず、徴収を任されていたヘロデは力ずくでも取り立てる必要が生じてその準備をしていたため、アントニウスとオクタウィアヌスの間で起きる戦い(後のアクティウムの海戦)に参加しなくてよいとアントニウスから言われたのでヘロデはマルコスとの戦いに向かった。マルコス軍との戦いは途中までは善戦したものの友軍のはずのアテニオン(クレオパトラの部下の将軍)軍の離反で大敗を期してゲリラ戦に持ち込む羽目になったり、ユダヤ地方一帯に大地震が起きて甚大な被害が出るなど悪いことが続いたため、ヘロデ側も和平交渉に出たがマルコスは地震による被害を過信して相手にせずに軍を率いて攻撃に出た。ところがこの時ヘロデとその軍隊は直接被害を受けていなかったため、これを迎え撃つのに成功した。 しかし、アクティウムの海戦でこれまで味方していたアントニウスが大敗を期したという情報も入り、アントニウス派であることが危険と察したヘロデはアントニウスを見限り、まずアントニウスの配下の剣闘士部隊が援軍としてキュジコス(現在のトルコ北西部にあった町)からエジプトに向かおうとしていたのをシリア総督ディディウスとともに阻止し、オクタウィアヌスの元に行く留守中に問題が起きぬように、マルコスとの内通容疑のあったヒルカノスの処刑を行い、政治面を弟のフェロラスに任せ、身内の女子供はマサダの要塞で非常時に権力掌握をするように命じ、マリアムネとアレクサンドラは前述の女たちと不仲なので別のアレクサンドレイオンに移して信頼置ける部下に見張らせ旧王家に国を乗っ取られないようにしたうえ、ロドス島に行ってオクタウィアヌスに贈り物を渡し面会した。前述のようにヘロデは直接オクタウィアヌス軍と戦うことはなかったが、今までアントニウスに友好的でアントニウス軍に軍資金や補給物資を送ったことや戦わなかった理由はアラブとの戦いの都合だと正直に述べ、なぜそれでアントニウスを見限ったのかに関してはクレオパトラに彼がうつつを抜かして自分の警告を聞かなかったためとし、今度はオクタウィアヌスと友好を結びたいと堂々と主張した所、オクタウィアヌスは事情を察してヘロデの要求のうちアレクサスの助命嘆願以外受け入れてくれ、ヘロデもアントニウスと戦うためにエジプトに行く彼の軍に補給物資を送り、彼個人には800タラントの贈り物をしてもてなした結果、オクタウィアヌスはアントニウスに勝利を収めてエジプトを征服後、クレオパトラの衛兵400人を奴隷として送ったうえ、ヘロデがクレオパトラに取られていた領地の他に、かつてポンペイオスがハスモン朝時代のユダヤの王アリストブロス(2世)から没収したガダラ・ピッポス・サマリア・ガザ・アンテドン・ヨッパ・ストラトンの塔もつけてくれ、国内でもヘロデの評価は大きく上がった。 しかし国外からの危険は幸運に転じられたが、彼自身の家庭に関しては悲惨なことが続いた。 ロドスに行く前にマリアムネとその母アレクサンドラについてソアイモスという男に、叔父のヨセフスの時と同じく「ヘロデ死亡時は両者も処刑」という命令を与えていたのだが、今回もこれをマリアムネは知ってヘロデを完全に嫌うようになり、これに彼女と仲が悪いヘロデの母と妹も対立をあおるようになった結果、ヘロデの毒殺未遂事件が起きてマリアムネが犯人とされ調査の結果ソアイモスへの命令の内容もマリアムネが知っていたことからソアイモスは即刻処刑、マリアムネもその後処刑された(紀元前29年頃 )が、ヘロデにとってもこれは痛手でこの後サマリアで病気になり、さらに寝込んでいる最中にアレクサンドラがエルサレムの要塞を乗っ取ろうとしたため彼女も処刑したが、こういったこともあり病気が治ってからも不機嫌でさらに粛清を続け、妹のサロメの夫コストバロス(イドメアの元祭司の家系だった人物)、ならびに自分とコストバロス双方の友人であるリュシマコス、ガディアスと呼ばれたアンティパトロス、ドシオテス。そしてコストバロスにかくまわれてたババスの息子(ハスモン家の遠縁の人物)を謀反容疑で処刑し、こうしてヘロデの無法な行為に異議を唱えられるものはいなくなった。
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