構成と出版事情
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『南総里見八犬伝』は9輯98巻106冊からなる。刊行初期には5巻=5冊を1輯にまとめて発刊していたが、最終的には全体の半数以上を「第9輯」が占めるという異様な構成になっている。これは馬琴が陰陽思想における陽の極数である9にこだわったためである。巻数と冊数が一致しないのは、上下分冊にした巻があるためである。 『水滸伝』などに範をとった章回小説(中国語版)の形式をとっており、物語は「回」によって区切られ、回ごとに内容を示す対句の題がついている。通常1冊に2回が収録されている。『八犬伝』の回数は180回と数えられるが、上下回に分かれる回などもあり、「第180回」の数字を持つ回に至っては「第百八十回上」「第百八十回下」「第百八十勝回上」「第百八十勝回中編」「第百八十勝回下編大団円」に5分割されている。 肇輯5冊の刊行は文化11年(1814年)。曲亭馬琴はすでに『椿説弓張月』(文化3年/1806年 - )、『俊寛僧都島物語』(文化5年/1808年)などを上梓しており、読本作家としての名声を築いていた。 28年間に版元は3回変わった。第5輯までの25冊を山青堂(山崎平八)が出版し、山青堂から版木を譲られた涌泉堂(美濃屋甚三郎)が第6輯を刊行した。しかし涌泉堂は資金繰りに困り、第7輯刊行には文渓堂(丁字屋平兵衛)の助力を得ている。その後、経営に行き詰った涌泉堂が『八犬伝』の版木を上方の版元に売り渡す事態を起こしているが、文渓堂がこれらの版木を買い戻している。第8輯以降、文渓堂が『八犬伝』の刊行を続けて完成に至るとともに、肇輯から第7輯に関しても刷り出している。 執筆中、馬琴は天保4年(1833年)頃から右目の視力が衰え、やがて視力を失った。天保9年(1838年)には左目の視力も衰えはじめ、天保11年(1840年)11月には執筆が不可能になった。このため息子の嫁の路(土岐村路)に口述筆記させて執筆を続けた。馬琴が手探りで記し、路が書き継いだ原稿(第九輯巻四十六=第177回)が早稲田大学に現存している。なお、漢字をまったく知らない路に偏や旁を教えながら口述筆記した、とされることもあるが、これは馬琴が「回外剰筆」で多分に誇張した(執筆状況そのものを物語化した)苦心談が独り歩きしたものである。早稲田大学蔵の自筆原稿では、路が確かな筆運びの整然とした文字で書き継いでいる。 天保12年8月20日(1841年10月4日)、馬琴は本編(第百八十勝回下編大団円)を完成させた。 輯・帙冊数回版元画工筆工(浄書)挿絵彫刻(剞劂)出版年肇輯 5冊(巻之1~巻之5) 第1回~第10回 山青堂 柳川重信 千形仲道 朝倉伊八郎 文化11年(1814年) 第2輯 5冊(巻之1~巻之5) 第11回~第20回 山青堂 柳川重信 千形仲道 朝倉伊八郎 文化13年(1816年) 第3輯 5冊(巻之1~巻之5) 第21回~第30回 山青堂 柳川重信 千形仲道 中村喜作 文政2年(1819年) 第4輯 5冊(巻之1~巻之5) 第31回~第40回 山青堂 柳川重信 千形仲道 中村喜作 文政3年(1820年) 第5輯 5冊(巻之1~巻之5) 第41回~第50回 山青堂 柳川重信渓斎英泉 田中正造 中村喜作神田庵驥徳 文政6年(1823年) 第6輯 6冊(巻之1~巻之5下) 第51回~第61回 涌泉堂 柳川重信渓斎英泉 谷金川田中正造 中村喜作 文政10年(1827年) 第7輯 7冊(巻之1~巻之7) 第62回~第73回 涌泉堂 渓斎英泉柳川重信 筑波仙橘谷金川 天保元年(1830年) 第8輯上帙 5冊(巻之1~巻之4下套) 第74回~第82回 文渓堂 柳川重信 谷金川 朝倉伊八横田守桜木藤吉原喜知 天保3年(1832年) 第8輯下帙 5冊(巻之5~巻之8下套) 第83回~第91回 文渓堂 柳川重信 谷金川墨田仙橘 朝倉伊八横田守桜木藤吉原喜知田中三八 天保4年(1833年) 第9輯上套 6冊(巻之1~巻之6) 第92回~第103回 文渓堂 柳川重信(二世) 谷金川 朝倉伊八横田守桜木藤吉 天保6年(1835年) 第9輯中套 7冊(巻之7~巻之12下) 第104回~第115回 文渓堂 柳川重信(二世) 谷金川千方道友 横田守桜木藤吉高木翦樫 天保7年(1836年) 第9輯下套上 5冊(巻之13之14~巻之18) 第116回~第125回 文渓堂 柳川重信(二世) 谷金川 横田守桜木藤吉鳥山某 天保8年(1837年) 第9輯下套中 5冊(巻之19~巻之23) 第126回~第135回 文渓堂 柳川重信(二世) 谷金川 横田守桜木藤吉森田某 天保9年(1838年) 第9輯下帙之下甲号 5冊(巻之24~巻之28) 第136回~第145回 文渓堂 柳川重信(二世)渓斎英泉 谷金川白馬台音成 鏤廉吉森田甲横田守常盤園 天保10年(1839年) 第9輯下帙之下乙号上套 5冊(巻之29~巻之32) 第146回~第153回 文渓堂 柳川重信(二世)歌川貞秀 谷金川 沢金次郎朝倉伊八常盤園鏤近吉 天保11年(1840年) 第9輯下帙之下乙号中套 5冊(巻之33~巻之35下) 第154回~第161回 文渓堂 歌川貞秀 谷金川 沢金次郎常盤園 天保11年(1840年) 第9輯下帙下編之上 5冊(巻之36~巻之40) 第162回~第166回 文渓堂 柳川重信(二世)渓斎英泉 谷金川 沢金次郎常盤園高谷熊五郎 天保12年(1841年) 第9輯下帙下編之中 5冊(巻之41~巻之45) 第167回~第176回 文渓堂 柳川重信(二世) 谷金川 高谷熊五郎沢金次郎 天保12年(1841年) 第9輯下帙下編之下 10冊(巻之46~巻之53下) 第177回~第180勝回下編大団円回外剰筆 文渓堂 柳川重信(二世)渓斎英泉 谷金川亀井金水対二楼音成 高谷熊五郎沢金次郎米蔵幸太郎 天保13年(1842年) 『八犬伝』の板木は、3千数百枚に及ぶ。板木は明治維新後に和泉屋吉兵衛・兎屋などの手を経て博文館の所有となった。板木を用いた出版は明治30年まで行われた。 江戸時代には今日的な意味での著作権は作者になく、出版権(板株)は版元の間で取引され、版元は自らが蔵板する本を自由に再摺し、板木の仕立て直しを行ったり、改題を行うこともできた。馬琴は刊行にあたって挿絵や意匠にさまざまな指示を出しているが、これらの指示が反映されたとみなされる初版初摺本が、研究上重視されている。後摺本にも馬琴が関与したものと、馬琴の関知しないものがある。『南総里見八犬伝』という作品の流通・普及の上では、後摺本の果たした役割も大きい。 馬琴の手許にあった『南総里見八犬伝』(手沢本)は国立国会図書館に収蔵されており、馬琴による書き入れも見られる。明治大学所蔵の板本は初摺本がそろったものとして評価が高い。
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