構成と代表の選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:45 UTC 版)
三部会の構成と勢力は常に同じであった。三部会は常に第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の代表を含み、国王は彼らから特別補助金の承認または助言を得るための会議を招集した。会議の構成と勢力は時代により様々であった。 14世紀から15世紀前半の初期の三部会では選挙の要素は限られたものだった。三部会を構成する世俗封建領主と聖職者(司教と高位聖職者)たちは彼らの同身分から選挙されたのではなく、国王によって直接選ばれ招集されている。しかしながら、聖職者身分の中のある特定の教会組織、例えば修道院と司教座聖堂参事会も同じく三部会に呼び寄せられ、そしてこれらの団体は、肉体的なものではなく精神的な存在であったので個人として出席することはできず、代表者は女子修道会または大聖堂参事会の律修司祭の修道士によって選ばれねばならなかった。 第三身分の代表だけが選挙によって選出されていた。それ以上に元々公開状は全ての身分の代表を求めてはいなかった。招集されたのは特権を与えられた優良都市(bonnes villes)だけであった。彼らは代訴士(procureurs:しばしば、自治都市の役人たち)から選出された代表であったが、この目的のための代表が選ばれることもしばしばあった。農村地区(plat pays)は代表されなかった。優良都市の中でさえ、参政権は限られたものだった。 三部会が実際に全土の三身分の選挙による代表で構成される機関となったのは16世紀後半の30年間のことであった。これは様々な理由による。一方で招集された貴族や聖職者たちが会議に出席しない傾向が常にあり、彼らは参加権を付与された代訴人(procureur)を代表としており、そしてしばしば同じ地域の領主や聖職者たちは同じ代訴人を彼らの代表としていた。もう一方で、この時代になると国王は全ての身分、特に第三身分全体の意思と感情を本当に表明する代表の同意を得る必要を感じていたと見られている。 1484年の三部会の公開状は聖職者、貴族そして第三身分を招集し、彼らはバイイ裁判区(代官管轄地域:バイヤージュ:bailliage)またはセネシャル裁判区(sénéchaussé)の主要都市で会合を持ち代表を選挙した。1468年にはこれの中間的な形態が行われており、高位聖職者と領主は個人を招集していたが、都市では聖職者と貴族そして市民は代表を選挙していた。第一身分は司教が、第三身分はバイイ裁判区の代官が選出されることが多かった。 1484年の三部会では三身分全てのための普遍的かつ直接的な参政権があった。だが、農村地区の平民(roturiers)は事実上この権限を利用することはできず、そのため、農村地域と小都市は選挙人会議で彼らの代表を自発的に選んでいた。このようにして間接選挙制度が第三身分のために生じて慣習化し、その後も続けて利用されるようになった。しばしば、二段階以上の参政権が存在した。農村地域で任命された選挙人と隣接する小都市で選ばれた選挙人とが、バイイ裁判区での選挙人集会に集まって第三身分代表を選んだ。最終的にこれが制度化された。聖職者と貴族の参政権は直接制であったが、概して聖職者では聖職禄を有する者、領主ではレーエン(封地)を持つ者がバイイ裁判区の選挙集会への参加を認められた。
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