執筆状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:07 UTC 版)
「エヴゲーニイ・オネーギン」の記事における「執筆状況」の解説
執筆開始プーシキンは、ツァールスコエ・セロー(現在のプーシキン (町))の貴族子弟専門学校であるリツェイ学習院卒業後、外務院の翻訳官に任命されていた。1820年の政治詩『自由』などにより、南ロシアのベッサラビアのキシニョフ(2022年6月現在モルドヴァ共和国のキシナウ)に追放される。ベッサラビアにて、1823年5月9日(ユリウス暦)に『オネーギン』の執筆を始める。 第一章、第二章脱稿1823年、ヴォロンツォフ伯爵の配下となりオデッサに向かう。オデッサで本作第一章、第二章を脱稿。 第三章脱稿1824年、イナゴ災害調査を命じられて激怒、退職願を書く。外務院は免職。皇帝により、母方の領地プスコフ県ミハイロフスコエ村に蟄居させられる。10月『オネーギン』第三章を脱稿。 検閲1825年12月、皇帝ニコライ1世の即位と同時にデカブリストの乱が起きる。乱に参加した青年将校たちには、プーシキンの友人が数多くいた。ニコライ1世はデカブリストの乱や西ヨーロッパでの自由主義の氾濫に警戒し、皇帝直属の秘密警察皇帝官房第三部や検閲法を作りあげた。 第四章、第五章、第六章脱稿1826年、ミハイロフスコエ村にて第四章を脱稿。モスクワに呼び戻される。同年、モスクワでニコライ1世に拝謁。ミハイロフスコエ村幽閉からは解放されるが、以後、作品は皇帝によって直接検閲されることとなる。11月、第五章を脱稿。新作を無許可で朗読することを禁止される。また、この年の後半にオネーギン第六章を脱稿。 第七章脱稿1828年物語詩『天使ガブリエルの歌』によって、ペテルブルクの軍事総督に尋問される。『オネーギン』第七章脱稿。。 第八章脱稿1830年四月、ナターリア・ゴンチャロワ(旧姓)ことナターリア・プーシキナと結婚。秋、結婚祝いに父から譲り受けた領地ボルジノで過ごす。短編集ベールキン物語など多くの作品を仕上げた。この豊穣な時期はボルジノの秋と呼ばれる。これらと並行して『オネーギン』の第八章、『オネーギンの旅』が書かれた。10月、『オネーギン』第十章の原稿を焼却する。
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