執筆生活
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1931年に翻訳したヴィニア・デルマー(英語版)の小説『バッド・ガール』は、水の江瀧子が使って流行語となっていた「キミ、僕」を会話に使い、その映画版『バッド・ガール』も同年公開され、当時のモダンガールのブームに乗って大きく喧伝されて、その主題歌がコロムビアとビクターでレコード化された。 コロムビア盤「バッドガールの唄」作詩菊田一夫、作・編曲奥山貞吉、歌河原喜久恵、1931年 ビクター盤「バッド・ガール」作詩柳水巴、編曲足利龍之助、歌羽衣歌子(曲はパソドブレ「ドン・ホセ」)1931年 毎日新聞には1930年「この太陽」執筆時から部長待遇での3年間の独占契約で、東京日日新聞の朝刊に「新しき天」、夕刊に「丹下左膳」を同時に連載するということもあった。1933年に城戸元亮取締役会長の辞任騒動に追従し、連載中だった丹下左膳の続編『続大岡政談』は読売新聞に題名も『丹下左膳』として連載された。1933年からは新潮社で『一人三人全集』全16巻を刊行開始。1934年に鎌倉小袋坂に新居を構え「からかね御殿」と呼ばれ、お披露目に新聞雑誌の関係者を集めて神田伯龍の講談を聞く会を催した。家には事務室があり、夫人の兄がそこで出版社との折衝を行なっていた。『講談倶楽部』では1928年に「十二時半」を掲載した際に原稿料で折り合わず、その後講談社には執筆していなかったが、1934年から『キング』『講談倶楽部』両誌同時に連載開始、「悲恋華」は連載3回目で読者投票1位となって『講談倶楽部』五大小説とも呼ばれ、並行して35年に時代もの「四季咲お美乃」を林不忘名で連載を始めていた。 1935年6月、『一人三人全集』の完結した2週間後に鎌倉の自宅にて35歳で急死。持病の喘息の発作だったという。この時に連載中の作品として、『講談倶楽部』2作の他に谷譲次名「新巌窟王」、林不忘名「時雨伝八」「蛇の目定九郎」「白梅紅梅」、牧逸馬名「大いなる朝」「虹の故郷」「双心臓」があった。絶筆となった「都会の怪異 七時0三分」は、『日の出』編集者の和田芳恵が先に聞いていた結末部分を書き足して掲載された。また文壇付き合いのなかった海太郎の通夜には、和田芳恵の他、嶋中雄作、『オール読物』編集長の菅忠雄、元東京日々学芸部長の新妻莞に3人が付き添った。戒名は慧照院不忘日海居士。墓所は鎌倉市比企谷妙本寺、海太郎が腰を下ろして想を練ったという巨石の上に墓石が立てられた。この超多忙な中の急死にあって菊池寛は「ジヤアナリズムが、作家に無理な仕事をさせなくなるとすれば、我々に取っては、一つの救いである。」(『文藝春秋』1935年10月号)とも書いている。 死後にも川口松太郎「新篇丹下左膳」、谷屋充「新作丹下左膳」、陣出達朗「女左膳」などの左膳ものが書かれ、映画・演劇化も数多く行われている。 弟で次男の潾二郎(りんじろう)は画家(地味井平造の変名で推理小説をも書いた)、三男の濬はロシア文学者、四男の四郎は作家となった。
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