執筆活動と調査旅行
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「ジャン・マビヨン」の記事における「執筆活動と調査旅行」の解説
マビヨンは師のアシェリから最初に託された仕事は、マビヨンがサン・ジェルマン・デ・プレに移る直後に病没したマビヨンの前任者がやり残していた聖ベルナルドの全集の完成であった。当時、聖ベルナルドの偽著が多く出回っていたが、彼は慎重なテキスト比較によって真正の著作のみを採録し、1667年に完成させた。続いて、彼は師が収集した史料の整理と病弱な体を押して行った史料収集のための調査旅行の成果を元にして、ベネディクト会のあらゆる聖人に関する伝記を執筆することになった。彼は各種の聖人伝や奇跡の報告に歴史的価値を認めてその年代確定に務める一方で、真正の史料として認められないものや史実と合わない史料は採用しなかった。1668年に第1巻が刊行された大著『聖ベネディクト修道会聖人伝』(Acta Sanctorum ordinis Sancti Benedicti)は1701年までに全9巻にて完結し、マビヨンを「この世紀の大学者」の1人として認めさせることとなった。ところが、この大作は思わぬ波紋を引き起こすことになった。それは、ベネディクト会において長い間信じられてきた何人かの聖人との関係について史料的に歴史的事実と認められないことを理由として『聖人伝』から除いた事であった。これが他の修道士からベネディクト会と修道士の名誉を傷つけるものとされたのである。これに対してマビヨンは「キリスト教徒は真理を大事にすることが重要であり、真理とは言えない話や作り話をもって語ることはむしろ修道会の不名誉につながる」と反論した。こうしたマビヨンに対する批判は『聖人伝』編纂の進展とともに沈静化し、彼の方針が次第に受け入れられるようになっていった。 マビヨンの執筆活動を支えたのは、師であるアシェリとともに収集・整理し、1685年の師の病没後は彼に託された大量の古文書や歴史史料の類であった。だが、マビヨンはこれに満足せず、ヨーロッパ各地の修道院の図書館やその他施設に眠っている古文書などの掘り出しの為に病弱な体を押して各地に調査旅行を行って、これらの施設にある文書を調査を行い、時間的余裕と管理者の許可が得られれば写本を作成して新たな財産を増やしていくことを怠らなかった。1672年にフランドル地方、1680年にロレーヌ地方、1682年にブルゴーニュ地方で調査旅行を行っている。1683年6月から11月にかけてアシェリはフランス国王ルイ14世の命を奉じる形でドイツ・スイスの調査旅行を行った。この旅行にはアシェリの元に出入りしていたフランス財務総監コルベールの働きかけが大きかった。アルザス地方からスイス、シュヴァーベン地方、アウクスブルク、バイエルンを巡る4か月余りの旅は当時のフランス・ドイツ関係の悪化にも関わらず各地で歓迎を受けて写本事業における便宜を受けた。特にブルゴーニュ地方のルクスールを訪問した際に、6世紀から7世紀にかけてのメロヴィング朝時代に書写された『ガリア典礼』を発見したのである。これはカール大帝によって廃止され、当時では見ることのできないものであった。マビヨンは直ちにこれを移して注釈を付けて1685年に刊行した。『ガリア典礼』の献呈を受けたランス大司教シャルル=モーリス・ル・テリエ(fr)は、彼をローマに派遣して調査旅行をさせるように国王ルイ14世に進言して認められた。旅立ちの直前、マビヨンはルイ14世に謁見する機会を得た。その際、ル・テリエは彼を「王国において最も学識に富む人物」であると紹介した。ところが、同席したモー大司教ジャック=ベニーニュ・ボシュエは、ル・テリエを非難した。それは、マビヨンが「王国において最も謙虚な人物」でもあることを国王に紹介しなかったことをル・テリエの不誠実によるものとみなしたのであった。この年の4月1日にパリを出発したマビヨンは途中ヴェネツィアにて師・アシェリの訃報を受け取った。加えて、この当時フランスとローマ教皇庁の関係が悪化しており、彼の旅の前途多難を危惧させた。ところが、ローマに着くと、彼は教皇庁や現地の学者から歓迎を受け、ローマの図書館や文書館に出入りする便宜を与えられた。彼は途中、ナポリやモンテ・カッシーノ(ベネディクト会の総本山)などの調査も行い、翌年2月までローマに滞在して、その後フィレンツェなどを回って7月にパリに帰還した。この間に3000冊以上の写本を行い、一部は当時建設中であった王立図書館に寄贈された。また、報告書に相当する『イタリアの図書館』を刊行した。その後も1696年にアルザス・ロレーヌ両地方、1699年にシャンパーニュ地方、1700年にノルマンディ地方、1703年にシャンパーニュ・ブルゴーニュ両地方の調査旅行を行い、数多くの調査を行った。その成果が多くの著者に反映されることになる。その最大の成果が1681年に刊行され、同年を「人類精神の歴史においてたしかに画期的な年である」(マルク・ブロック『歴史のための弁明』)と評価された『古文書学』である。
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