楊堅の出自に関する論争とは? わかりやすく解説

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楊堅の出自に関する論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 14:56 UTC 版)

楊堅」の記事における「楊堅の出自に関する論争」の解説

隋室楊氏は、楊震長男の楊牧の子孫を自称している。楊牧に楊統と楊馥の二子があり、楊統の子楊琦は、霊帝時代侍中となったが、その末裔楊琦の子楊亮陽成亭侯に封ぜられたこと以外は不明である。楊馥は信頼すべき史料にその名はみられず、『新唐書宰相世系表(中国語版)』によって伝えられるに過ぎない。『新唐書宰相世系表』よると、楊馥の十世の孫を楊孚といい、楊孚の六世の孫に楊渠が楊鉉(前燕北平郡太守)を生み、楊鉉の子楊元寿で、その子が楊恵嘏である。しかし、『隋書』高祖本記には「漢の太尉楊震八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平太守となる。楊鉉、楊元寿を生む後漢の代、武川鎮司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、楊震から楊鉉まで8代となっており、『新唐書宰相世系表』の楊震から楊鉉までの19代と大きく矛盾しており、清代学者の沈炳震(中国語版)は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏系譜疑問呈している。清代学者万斯同は、『新唐書宰相世系表』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している。 竹田竜児は、「この隋室が果して弘農楊氏の末であったか否か頗る疑わしい」として、「楊元寿以来久しく北辺におった隋室は、血液の上でも習俗の面でも可成り鮮卑化されていたらしい明察英主文帝如きですら、『学を悦ばず』と明記されているところをみると、彼らはどうも貴族的な文雅教養には缺けていたらしく思われるのであり、この辺にも隋室を以て弘農楊氏の末と認めるのを躊躇させるものが存するのである」と述べている。 陳寅恪は、楊忠嫁いだ呂苦桃中国語版)が山東寒族(中国語版)であることから、当時婚姻慣例考えると、楊忠間違いなく天下有数名門の家柄である弘農楊氏ではないと考えており、楊忠が「18歳時に泰山遊山した」という記録山東寒族の呂苦桃との結婚から、隋室楊氏山東あるいは近隣の寒族ではないか推察している。陳寅恪は、宇文泰武川鎮軍閥一つにするため、山東郡望中国語版)を関中郡望変えることによって故郷へ思想断ち切るため、隋室楊氏と唐室李氏弘農楊氏隴西李氏の子孫を称した主張した。 呂春盛(国立台南大学)は、当時身分内婚制普及しており、天下有数名門の家柄である弘農楊氏であるならば、楊忠山東寒族の呂苦桃と婚を結ぶことはなであろうから、婚姻相手から隋室楊氏弘農楊氏ではないと陳寅恪主張したことは説得力があり、天下有数名門の家柄である弘農楊氏という主張信憑性がなく、隋室楊氏山東寒族の可能性はあるが、楊元寿以来5世代にわたって胡族地域である武川鎮住んでいたことから、かなりの胡族文化をもつ一族であることは間違いない指摘している。 唐長孺によると、楊駿楊珧など系譜的に追跡可能な弘農楊氏の子孫は、晋代一族離散した北魏時代弘農楊氏称した楊播などは出自疑わしいが、弘農楊氏遠祖分家だった可能性もあり、確認は困難である。 氣賀澤保規は、楊堅は、漢人名門弘農郡華陰楊氏自称しており、非常に興味深い起源であるが、実際に大きな問題があり、楊堅祖先は、北魏時代万里の長城北方武川鎮住んでおり、北方国境警備する役割担っていた。したがって弘農郡華陰楊氏と関係があったとしても、それはずっと昔のことであり、楊堅北方民族通婚した楊氏出身で、その祖先はすでに北方民族世界溶け込んでいたと言った方が適切であり、記録によると、楊堅の父である楊忠は、身長七尺八寸、2メートル上の大男彫刻のような美男子で、左手猛獣の体を持ち右手猛獣の舌を抜くなど優れた戦士であったといい、楊忠身体的特徴から、鮮卑だけでなく、匈奴などの多種族の血統引いていたと思われる、と述べている。 王齢(清華大学)は、隋室楊氏漢人であることを強く疑っており、以下の疑問呈している。 隋室楊氏祖先久しく匈奴鮮卑雑居地だった武川鎮住んでいる。 隋室楊氏は、弘農楊氏自称しているが、その世系途切れており曖昧である。 隋室楊氏家族関係は、儒教的道徳倫理反することが多く寧ろ塞外民族風俗・習慣暗合している。 隋室楊氏は、好んで鮮卑回鶻突厥などと婚を通じている。 西魏のとき、550年ころに成立していた西魏常備軍編制二十四軍があり、そのうち二軍大将軍が、四軍六人柱国大将軍統率した。柱国大将軍メンバーは、宇文泰李虎唐の高祖李淵祖父)、元欣李弼独孤信趙貴于謹侯莫陳崇であるが、宇文泰元欣直接二十四軍統率しない。八人柱国大将軍は、大司徒大宗伯・大司馬大司寇・大司空少師少傅という西魏の『周礼』風の最高官をもっており、当時において門閥といえばこの八柱国の家をいうのだと『周書』に明記されている。また、宇文泰元欣独孤信于謹侯莫陳崇鮮卑であり、宇文泰李虎独孤信趙貴侯莫陳崇武川鎮の人である。大将軍メンバーは、元賛元育元廓宇文導侯莫陳順達奚武李遠豆盧寧宇文貴賀蘭祥楊忠楊堅の父)、王雄である。十二大将軍はいずれ大都督で州刺史兼ね家柄八柱国につぐものとみなされ元賛元育元廓宇文導侯莫陳順達奚武豆盧寧宇文貴賀蘭祥鮮卑であり、元賛元育元廓西魏皇族であり、侯莫陳順八柱国一人侯莫陳崇の兄で武川の人であり、達奚武北魏皇族である。以上から、鮮卑明証のない人は、八柱国では、李虎李弼(隋末反乱期英雄李密曾祖父)、趙貴三人であるが、このうち李虎趙貴はその祖先武川鎮移っている。十二大将軍のうち、李遠楊忠王雄鮮卑明証がないが、楊忠はその祖先武川移っており、李遠隴西成紀の人というが、その祖父高平鎮に移っており、王雄太原王氏という漢人名門称しているが、字は胡布頭といい、漢人らしくない名をもち(漢人の字は二字が普通)、太原王氏仮託しているとみられる。したがって八柱国鮮卑武川鎮の人が根幹形成し十二大将軍鮮卑大部分構成されているなかに、楊忠李虎含まれているのであり、しかもいずれも武川移ったことが明らかである以上(武川鎮軍閥は、北魏対す北方からの侵略対抗するための首都防衛第一線であるため、北魏根幹構成する鮮卑拓跋部の人たちが中心になって勤務していた)、隋室楊氏弘農華陰楊氏といい、唐室李氏隴西狄道もしくは隴西成紀の人と称していたとしても、これを純粋の漢人とみなすことはできないまた、八柱国一人独孤信は、その長女宇文泰の子宇文毓に嫁がせ、また四女李虎の子李昞に嫁がせ、さらに七女を十二大将軍一人楊忠の子楊堅に嫁がせており、これはいずれものち北周、隋、唐の王朝形成したのでたまたま判明しているが、八柱国十二大将軍家はいずれ婚姻関係によってもかたく結ばれていたろう推定される

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