楊堅の出自に関する論争
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隋室楊氏は、楊震の長男の楊牧の子孫を自称している。楊牧に楊統と楊馥の二子があり、楊統の子の楊琦は、霊帝時代に侍中となったが、その末裔は楊琦の子の楊亮が陽成亭侯に封ぜられたこと以外は不明である。楊馥は信頼すべき史料にその名はみられず、『新唐書宰相世系表(中国語版)』によって伝えられるに過ぎない。『新唐書宰相世系表』よると、楊馥の十世の孫を楊孚といい、楊孚の六世の孫に楊渠が楊鉉(前燕の北平郡太守)を生み、楊鉉の子が楊元寿で、その子が楊恵嘏である。しかし、『隋書』高祖本記には「漢の太尉楊震の八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平の太守となる。楊鉉、楊元寿を生む。後漢の代、武川鎮の司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、楊震から楊鉉まで8代となっており、『新唐書宰相世系表』の楊震から楊鉉までの19代と大きく矛盾しており、清代の学者の沈炳震(中国語版)は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏の系譜に疑問を呈している。清代の学者万斯同は、『新唐書宰相世系表』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している。 竹田竜児は、「この隋室が果して弘農楊氏の末であったか否かは頗る疑わしい」として、「楊元寿以来久しく北辺におった隋室は、血液の上でも習俗の面でも可成り鮮卑化されていたらしい。明察の英主文帝の如きですら、『学を悦ばず』と明記されているところをみると、彼らはどうも貴族的な文雅な教養には缺けていたらしく思われるのであり、この辺にも隋室を以て弘農楊氏の末と認めるのを躊躇させるものが存するのである」と述べている。 陳寅恪は、楊忠に嫁いだ呂苦桃(中国語版)が山東寒族(中国語版)であることから、当時の婚姻の慣例を考えると、楊忠は間違いなく天下有数の名門の家柄である弘農楊氏ではないと考えており、楊忠が「18歳の時に泰山に遊山した」という記録と山東寒族の呂苦桃との結婚から、隋室楊氏は山東あるいは近隣の寒族ではないかと推察している。陳寅恪は、宇文泰が武川鎮軍閥を一つにするため、山東の郡望(中国語版)を関中の郡望に変えることによって故郷への思想を断ち切るため、隋室楊氏と唐室李氏は弘農楊氏・隴西李氏の子孫を称したと主張した。 呂春盛(国立台南大学)は、当時は身分内婚制が普及しており、天下有数の名門の家柄である弘農楊氏であるならば、楊忠が山東寒族の呂苦桃と婚を結ぶことはないであろうから、婚姻相手から隋室楊氏は弘農楊氏ではないと陳寅恪が主張したことは説得力があり、天下有数の名門の家柄である弘農楊氏という主張は信憑性がなく、隋室楊氏が山東寒族の可能性はあるが、楊元寿以来5世代にわたって胡族地域である武川鎮に住んでいたことから、かなりの胡族文化をもつ一族であることは間違いないと指摘している。 唐長孺によると、楊駿や楊珧など系譜的に追跡可能な弘農楊氏の子孫は、晋代に一族が離散した。北魏時代に弘農楊氏を称した楊播などは出自が疑わしいが、弘農楊氏の遠祖の分家だった可能性もあり、確認は困難である。 氣賀澤保規は、楊堅は、漢人の名門・弘農郡華陰の楊氏を自称しており、非常に興味深い起源であるが、実際には大きな問題があり、楊堅の祖先は、北魏時代に万里の長城の北方武川鎮に住んでおり、北方の国境を警備する役割を担っていた。したがって、弘農郡華陰の楊氏と関係があったとしても、それはずっと昔のことであり、楊堅は北方民族と通婚した楊氏の出身で、その祖先はすでに北方民族の世界に溶け込んでいたと言った方が適切であり、記録によると、楊堅の父である楊忠は、身長七尺八寸、2メートル以上の大男、彫刻のような美男子で、左手で猛獣の体を持ち、右手で猛獣の舌を抜くなど優れた戦士であったといい、楊忠の身体的特徴から、鮮卑だけでなく、匈奴などの多種族の血統も引いていたと思われる、と述べている。 王桐齢(清華大学)は、隋室楊氏が漢人であることを強く疑っており、以下の疑問を呈している。 隋室楊氏の祖先は久しく匈奴や鮮卑の雑居地だった武川鎮に住んでいる。 隋室楊氏は、弘農楊氏を自称しているが、その世系は途切れており曖昧である。 隋室楊氏の家族関係は、儒教的道徳や倫理に反することが多く、寧ろ塞外民族の風俗・習慣と暗合している。 隋室楊氏は、好んで鮮卑・回鶻・突厥などと婚を通じている。 西魏のとき、550年ころに成立していた西魏の常備軍の編制に二十四軍があり、そのうちの二軍を大将軍が、四軍を六人の柱国大将軍が統率した。柱国大将軍のメンバーは、宇文泰、李虎(唐の高祖李淵の祖父)、元欣、李弼、独孤信、趙貴、于謹、侯莫陳崇であるが、宇文泰と元欣は直接二十四軍は統率しない。八人の柱国大将軍は、大司徒・大宗伯・大司馬・大司寇・大司空・少師・少傅という西魏の『周礼』風の最高官職をもっており、当時において門閥といえばこの八柱国の家をいうのだと『周書』に明記されている。また、宇文泰、元欣、独孤信、于謹、侯莫陳崇は鮮卑であり、宇文泰、李虎、独孤信、趙貴、侯莫陳崇は武川鎮の人である。大将軍のメンバーは、元賛、元育、元廓、宇文導、侯莫陳順、達奚武、李遠、豆盧寧、宇文貴、賀蘭祥、楊忠(楊堅の父)、王雄である。十二大将軍はいずれも大都督で州刺史を兼ね、家柄は八柱国につぐものとみなされ、元賛、元育、元廓、宇文導、侯莫陳順、達奚武、豆盧寧、宇文貴、賀蘭祥は鮮卑であり、元賛、元育、元廓は西魏の皇族であり、侯莫陳順は八柱国の一人の侯莫陳崇の兄で武川の人であり、達奚武は北魏の皇族である。以上から、鮮卑と明証のない人は、八柱国では、李虎、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、趙貴の三人であるが、このうち李虎と趙貴はその祖先が武川鎮に移っている。十二大将軍のうち、李遠、楊忠、王雄が鮮卑の明証がないが、楊忠はその祖先が武川に移っており、李遠は隴西成紀の人というが、その祖父は高平鎮に移っており、王雄は太原の王氏という漢人の名門を称しているが、字は胡布頭といい、漢人らしくない名をもち(漢人の字は二字が普通)、太原王氏を仮託しているとみられる。したがって、八柱国は鮮卑か武川鎮の人が根幹を形成し、十二大将軍も鮮卑で大部分が構成されているなかに、楊忠と李虎が含まれているのであり、しかもいずれも武川に移ったことが明らかである以上(武川鎮軍閥は、北魏に対する北方からの侵略に対抗するための首都防衛の第一線であるため、北魏の根幹を構成する鮮卑拓跋部の人たちが中心になって勤務していた)、隋室楊氏が弘農華陰の楊氏といい、唐室李氏が隴西狄道、もしくは隴西成紀の人と称していたとしても、これを純粋の漢人とみなすことはできない。また、八柱国の一人の独孤信は、その長女を宇文泰の子の宇文毓に嫁がせ、また四女を李虎の子の李昞に嫁がせ、さらに七女を十二大将軍の一人の楊忠の子の楊堅に嫁がせており、これはいずれものち北周、隋、唐の王朝を形成したのでたまたま判明しているが、八柱国十二大将軍家はいずれも婚姻関係によってもかたく結ばれていたろうと推定される。
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