楊堅の死について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 20:18 UTC 版)
楊堅の長男の楊勇が皇太子に立てられていたが、独孤皇后や楊素らの画策で廃嫡され、次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。604年、楊堅は仁寿宮で病の床についたが、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたことを、難を逃れた夫人から直接聞いて、「畜生になんで大事を託せようか。独孤(皇后)がわしを誤らせたのだ」と言い、「我が子を呼べ」と叫んで、楊勇を呼び出そうとした。その直後に楊堅は亡くなった。享年64。 病床の楊堅が、廃太子楊勇を呼び出そうとしたことを柳述・元厳が楊素に報告し、楊素が太子楊広に報告すると、楊広が張衡を楊堅の寝殿に派遣し、夫人や後宮の侍従が別室に離れた直後に、楊堅は亡くなったとする。 以上の説は、宮崎市定が『隋の煬帝』(中公文庫)で説くように、煬帝の暴君伝説がさまざま作られるなかで成立した部分が多いようである。唐初に成立した『隋書』では、「本紀」ではなく「列伝第一」「后妃伝」に記されている。
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