東ドイツの建国と社会主義の建設とは? わかりやすく解説

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東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:04 UTC 版)

ドイツ民主共和国」の記事における「東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961)」の解説

東ドイツは、1948年10月ドイツ民主共和国憲法起草1949年10月7日共和国の日(ドイツ語版))に建国した。第二次ドイツ人議会ドイツ語版)が、暫定的な人民議会として成立しオットー・グローテヴォール首相として政府創設の任に当たった10月11日グローテヴォール同僚であるSED議長ヴィルヘルム・ピーク大統領選出された。 東ドイツは、現実社会主義人民共和国であったが、SEDだけでなく、自民党キリスト教民主同盟 (CDU) のような中道右派政党活動許されていた。ただし、CDU民主農民党自民党国家民主党は、衛星政党としてSEDと共に国民戦線組んでいた。公式的には閣僚評議会ドイツ語版)が東ドイツ政府であったが、実際にSED中央委員会政治局権力中枢であったヴァルター・ウルブリヒトは、政治局メンバーであり、1950年以降は、SED中央委員会書記長となった。さらにドイツ駐留ソ連軍総司令部陸軍大将であったワシーリー・チュイコフソ連管理委員会ドイツ語版)は強い権力持っていた。 ソ連政府1954年3月25日に、「ソ連は、他の主権国家同様に東ドイツとも平等な関係」を望んでいると説明したが、東ドイツ主権制限されたままであった社会史家のハンス=ウルリッヒ・ヴェーラー(ドイツ語版)は、当時東ドイツは「ソ連帝国西部戦線サトラップ地方総督)」であったとしている。 ?1949年-1959年ドイツ民主共和国の国旗当初東西共に同じ国旗使用していた。 東ドイツ建国時のヴィルヘルム・ピークオットー・グローテヴォール撮影1949年10月7日ソ連管理委員会委員長として陸軍大将チュイコフが、東ドイツ政府要人たちを迎えている(撮影1949年11月11日人民議会最初選挙は、1950年10月15日決まり統一名簿基づいて行われた憲法発効1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対してCDULDPD中道右派政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着したLDPD党首のハンス・ロッホ(ドイツ語版)は財務大臣に、CDU党首のオットー・ヌシュケ(ドイツ語版)は副首相に、その党友であるゲオルク・デルティンガー(ドイツ語版)は外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツ外交政策重要だったのは二つある。1950年7月6日ポーランド人民共和国ゲルリッツ協定ドイツ語版)を結んでオーデル・ナイセ線国境線として確定したこと、1950年9月29日経済相互援助会議(RGW/COMECON)に加盟したことである。 東ドイツ西ドイツ同様に、旧ドイツ国 (Deutsches Reich) の正統継承国であることであると主張していた。当初東側憲法民主的であることが強調され東西ドイツ協調する可能性模索されたが失敗した非武装中立国としてドイツ独立させることを提唱したスターリン・ノート」(1952年)に対し西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように双方にとって納得できない提案双方押し付け合ったためである。 その後ヨシフ・スターリン1952年7月ウルブリヒト中心としたSED指導部社会主義建設のための全権与えた経済では、工業産業国有化進められ農業においては農協ドイツ語版)をモデルとした集団農場称揚された。また、全ての敵対者、特に教会に対して政治的な弾圧加えられた。1952年5月遮断されていたドイツ国内国境ドイツ語版)では、「害虫駆除作戦ドイツ語版)」が実行され逃亡可能性があると疑われ国境付近住民強制的に移住させられた。 出動したソ連軍戦車1953年6月17日1953年3月スターリン死去したあと、ソ連指導部方針転換し、強制的な社会主義化政治的弾圧をやめるようになったSEDこの方針に従ったが、ノルマ達成しない労働者賃金カットする労働規範ドイツ語: Arbeitsnorm)」は撤回しなかったことで、東ベルリン抗議デモ起こり、それが発展して1953年6月17日東ベルリン暴動起こった東ドイツ国内駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡したソ連東ドイツへの賠償請求放棄し東ドイツ国内にあったソ連法人ドイツ語版)を国営企業へと変えるなどして財政援助行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内疑問視されていたウルブリヒト政権下のSED体制安定するようになった1956年11月ハンガリー動乱で、ソ連軍鎮圧あたった際には、数千人の死者出ただけでなく、さらに2000人以上が処刑された。これに応じて東ドイツでも、体制批判的な学生学者に対して新たに弾圧が行われた。1959年SEDは「社会主義建設」のための第二段階実行するようになった。まずSEDあらゆる手段使って1960年第一四半期農業面積の約40%を「自発的な加入によって農協所有物にし、農産物90%を集団農場作ることの必要性喚起したそのことによって難民の数は飛躍的に増大し、47433人が1961年8月初めに東ドイツから逃亡した

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