東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961)
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「ドイツ民主共和国」の記事における「東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961)」の解説
東ドイツは、1948年10月にドイツ民主共和国憲法を起草、1949年10月7日(共和国の日(ドイツ語版))に建国した。第二次ドイツ人民議会(ドイツ語版)が、暫定的な人民議会として成立し、オットー・グローテヴォールが首相として政府創設の任に当たった。10月11日、グローテヴォールの同僚であるSED議長のヴィルヘルム・ピークが大統領に選出された。 東ドイツは、現実社会主義の人民共和国であったが、SEDだけでなく、自民党やキリスト教民主同盟 (CDU) のような「中道右派」政党の活動も許されていた。ただし、CDUや民主農民党、自民党、国家民主党は、衛星政党としてSEDと共に国民戦線を組んでいた。公式的には閣僚評議会(ドイツ語版)が東ドイツの政府であったが、実際にはSED中央委員会政治局が権力の中枢であった。ヴァルター・ウルブリヒトは、政治局のメンバーであり、1950年以降は、SED中央委員会の書記長となった。さらにドイツ駐留ソ連軍の総司令部陸軍大将であったワシーリー・チュイコフのソ連管理委員会(ドイツ語版)は強い権力を持っていた。 ソ連政府は1954年3月25日に、「ソ連は、他の主権国家と同様に、東ドイツとも平等な関係」を望んでいると説明したが、東ドイツの主権は制限されたままであった。社会史家のハンス=ウルリッヒ・ヴェーラー(ドイツ語版)は、当時の東ドイツは「ソ連帝国の西部戦線のサトラップ(地方総督)」であったとしている。 ?1949年-1959年のドイツ民主共和国の国旗。当初は東西共に同じ国旗を使用していた。 東ドイツ建国時のヴィルヘルム・ピークとオットー・グローテヴォール(撮影:1949年10月7日) ソ連管理委員会の委員長として陸軍大将チュイコフが、東ドイツ政府の要人たちを迎えている(撮影:1949年11月11日) 人民議会の最初の選挙は、1950年10月15日に決まり、統一名簿に基づいて行われた。憲法発効後1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対して、CDUやLDPDの中道右派の政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着した。LDPD党首のハンス・ロッホ(ドイツ語版)は財務大臣に、CDU党首のオットー・ヌシュケ(ドイツ語版)は副首相に、その党友であるゲオルク・デルティンガー(ドイツ語版)は外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツの外交政策で重要だったのは二つある。1950年7月6日、ポーランド人民共和国とゲルリッツ協定(ドイツ語版)を結んで、オーデル・ナイセ線を国境線として確定したこと、1950年9月29日、経済相互援助会議(RGW/COMECON)に加盟したことである。 東ドイツは西ドイツと同様に、旧ドイツ国 (Deutsches Reich) の正統な継承国であることであると主張していた。当初は東側の憲法も民主的であることが強調され、東西ドイツが協調する可能性が模索されたが失敗した。非武装中立国としてドイツを独立させることを提唱した「スターリン・ノート」(1952年)に対し、西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように、双方にとって納得できない提案を双方が押し付け合ったためである。 その後、ヨシフ・スターリンは1952年7月にウルブリヒトを中心としたSED指導部に社会主義建設のための全権を与えた。経済では、工業産業の国有化が進められ、農業においては、農協(ドイツ語版)をモデルとした集団農場が称揚された。また、全ての敵対者、特に教会に対して政治的な弾圧が加えられた。1952年5月に遮断されていたドイツ国内国境(ドイツ語版)では、「害虫駆除作戦(ドイツ語版)」が実行され、逃亡の可能性があると疑われた国境付近の住民が強制的に移住させられた。 出動したソ連軍戦車(1953年6月17日) 1953年3月にスターリンが死去したあと、ソ連指導部は方針転換し、強制的な社会主義化と政治的弾圧をやめるようになった。SEDはこの方針に従ったが、ノルマを達成しない労働者の賃金をカットする「労働規範(ドイツ語: Arbeitsnorm)」は撤回しなかったことで、東ベルリンで抗議デモが起こり、それが発展して1953年6月17日に東ベルリン暴動が起こった。東ドイツ国内に駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡した。 ソ連は東ドイツへの賠償請求を放棄し、東ドイツ国内にあったソ連法人(ドイツ語版)を国営企業へと変えるなどして財政援助を行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内で疑問視されていたウルブリヒト政権下のSED体制も安定するようになった。1956年11月のハンガリー動乱で、ソ連軍が鎮圧にあたった際には、数千人の死者が出ただけでなく、さらに2000人以上が処刑された。これに応じて、東ドイツでも、体制批判的な学生や学者に対して新たに弾圧が行われた。1959年、SEDは「社会主義建設」のための第二段階を実行するようになった。まずSEDはあらゆる手段を使って、1960年の第一四半期に農業面積の約40%を「自発的な」加入によって農協の所有物にし、農産物の90%を集団農場で作ることの必要性を喚起した。そのことによって難民の数は飛躍的に増大し、4万7433人が1961年8月初めに東ドイツから逃亡した。
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