東ドイツの弁護士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:57 UTC 版)
「グレゴール・ギジ」の記事における「東ドイツの弁護士」の解説
東ベルリンで生まれる。彼の家系(祖母)はユダヤ人の血を引いており、祖先の代から共産主義活動に熱心だった。ギージという姓自体はスイスドイツ語の姓である。曾祖母はロシア貴族の家系。父クラウス・ギージは1931年にドイツ共産党に入党し、第二次世界大戦後は東ドイツで大使、文化大臣、教会問題省次官などを歴任した。姉ガブリエレは女優。母方の伯父ゴットフリート・レッシングは戦後の一時期イギリス人作家ドリス・レッシングと結婚しており、彼女は2007年にノーベル文学賞を受賞した。1996年に結婚した妻アンドレアも弁護士かつ政治家であり、一女をもうけている。アンドレアとは2010年に別居、2013年に離婚した。他に前妻との間に一男、養子が一人いる。 ギジは1966年にアビトゥーアに合格、畜産を学んだ実業高校を卒業し、ベルリン大学に入学して法学を学ぶ。在学中の1969年、東ドイツの支配政党であるドイツ社会主義統一党(SED)に入党。1970年に大学を卒業。1971年から弁護士として働き始め、東ドイツの数少ない自由派弁護士として反体制派や西側への亡命希望者の弁護を担当。1976年に法学博士号を取得。1988年、ベルリン弁護士協会及び東ドイツ弁護士協会の会長に就任。1989年に反体制的な「新フォーラム」に加入。 東欧革命のさなかの1989年、東ドイツでもデモや集会が頻発。ギジは旅行法改正要求運動で注目される。11月4日のベルリン・アレクサンダー広場における50万人デモでは群衆の前で演壇に立ち、選挙法改正や憲法裁判所設置を政府に要求した。その弁舌と理論でたちまちメディアの寵児となり、SED臨時党大会の準備委員に就任。さらに12月9日にはSED議長に選出された。12月16日、SED党大会で国家主権確保のため両ドイツの(対等な)協調を表明し、さらに党名を社会主義統一民主社会党(SED/PDS)に改名。SED(1990年に民主社会党= PDS に改名)に対する解党要求は、政府機関で働く党員の職場維持や党資産保護を理由に拒絶した。1990年3月の初の自由選挙で人民議会議員に当選。東西両ドイツによる通貨同盟条約を批判し、西による東の吸収ではなく、統一後の両国に新憲法制定を定めたドイツ連邦共和国基本法第146条による統一を要求した。10月3日の東西ドイツ再統一後はそのままドイツ連邦議会議員となる。
※この「東ドイツの弁護士」の解説は、「グレゴール・ギジ」の解説の一部です。
「東ドイツの弁護士」を含む「グレゴール・ギジ」の記事については、「グレゴール・ギジ」の概要を参照ください。
- 東ドイツの弁護士のページへのリンク