東ドイツでの社民党再建
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「ドイツ社会民主党」の記事における「東ドイツでの社民党再建」の解説
東欧革命の結果、民主化が進む東ドイツで1989年9月から10月初旬にかけて民主化を求める在野の政党・政治団体が続々と創設された。その一つとして東ドイツ社会民主党(ドイツ語版)が10月7日に創設された。43年ぶりの東ドイツでの社民党の再建となった。同党の略称は当初SDPだったが、1990年1月13日には西側社民党と同じSPDに改正した。 東ドイツ社民党はソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ流の政治改革を唱え、人民議会選挙を自由選挙にし、それに候補を出すことを目指した。1989年12月7日に独裁政党ドイツ社会主義統一党及びその衛星政党と在野勢力の対話の場として円卓会議が設置されると社民党も在野勢力の一つとして参加した。数度にわたる円卓会議の結果、人民議会選挙が1990年3月18日に自由選挙で行われることになった。1990年2月5日の第11回円卓会議では「選挙の機会均等のため」として西ドイツから弁士の応援を受けることを放棄するという決議が行われたが、これに反対した社民党やドイツキリスト教民主同盟(CDU)(東ドイツの衛星政党だったが民主化後は路線転換し、西のCDUの支援を受けた)などは、決議に従うつもりはないと宣言し、それぞれの背後にある西側同名政党の応援を受けた。 選挙戦中、西側社民党は元首相ヴィリー・ブラントを12回にわたって東ドイツ遊説に送り込むなどして東側社民党を積極的に支援した。一方西側キリスト教民主同盟も現役の西ドイツ首相ヘルムート・コールを東ドイツ遊説に送り、東側キリスト教民主同盟を支援した。この選挙の主な争点は統一問題だったが、ほとんどの党派が統一に賛成しており、特にキリスト教民主同盟や社民党など西側政党を模して作られた政党は統一に熱心だった。統一の方法を巡ってはキリスト教民主同盟が「西ドイツに併合される」、社民党が「両ドイツ国民で新憲法を作る」方法を訴えたが、両党とも西ドイツの体制をベースとした統一という点では本質的差異はなかった(一方社会主義統一党が改組された民主社会党や西側にパートナーを持たない同盟90は「東ドイツの独自性を維持しつつ統一へ」と訴えていた)。 事前の世論調査では社民党有利との観測が出ていたが、1990年3月18日の投開票の結果、キリスト教民主同盟が163議席を獲得して第一党になる一方、社民党は88議席の第二党にとどまった。選挙後に発足したキリスト教民主同盟党首ロタール・デメジエールを首相とする政権には社民党も参加したが、統一や選挙の日程をめぐって東西社民党はデメジエールと対立し、政治的駆け引きから8月に政権を離脱した。 その後、東側社民党は1990年9月26日の党大会で西側社民党との合流を決議した。直後の1990年10月3日に東ドイツが西ドイツに併合される形でドイツ再統一が行われた。再統一後の最初の選挙である同年12月の総選挙(連邦議会選挙)で社民党はコール政権打倒に失敗しているが、この時にも旧東ドイツ地域では社民党の得票は伸び悩んでいる。
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