東トルキスタン政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 15:38 UTC 版)
「アフメトジャン・カスィミ」の記事における「東トルキスタン政府」の解説
1944年10月に釈放されるとグルジャに向かい、11月12日に第2次東トルキスタン共和国(英語版)の国家評議会議員に任命された。ただし、カスィミ自身はイリ事変(英語版)には参加していなかった。東トルキスタン共和国主席にはイマームのアリハーン・トラが就任し、保守的なイスラム主義政権が形成された。 1945年2月頃からトラの秘書官を務め、才能を認められて4月に共和国軍事庁長に任命された。また、親ソ派のメンバーで構成される東トルキスタン・テュルク系民族解放委員会の主席を務めていた。9月に東トルキスタン軍はウルムチ市に侵攻するが、10月に入るとヨシフ・スターリンの命令で国民政府と和平交渉を行うことになり、カスィミが交渉を担当することになった。1946年6月12日に和平合意が締結されたが、和平に反対していたトラは和平合意の6日後にソ連領内に拉致され、和平交渉を通して政治的に台頭したカスィミが東トルキスタン政府主席となった。 交渉の結果、東トルキスタン共和国と新疆省政府の合同による新疆省連合政府の発足が合意され、中国国民党の張治中を省政府主席に、アフメトジャンを副主席にする人事が行われた。しかし、カスィミは東トルキスタンの独立を求め新疆省連合政府に否定的な立場を示し、連合政府からの分離を求め、代表団を率いて南京を訪問し交渉に臨むが不調に終わっている。1947年5月に張治中が省政府主席を辞任し、後任に国民党右派のウイグル人マスード・サブリが就任すると新疆省連合政府は分裂し、カスィミたち東トルキスタン政府のメンバーは8月12日にグルジャに戻り三区経済委員会を称した:8396。
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