東ドイツへの亡命とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:43 UTC 版)
「マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ」の記事における「東ドイツへの亡命とその後」の解説
無一文となったブラウヒッチュはドイツ社会主義統一党(SED)のヴァルター・ウルブリヒトをはじめとする共産主義者たちに懐柔され、1951年に東ドイツの出版社が彼の自伝(1953年に刊行された『Kampf um Meter und Sekunden』)を買い取り、それによりブラウヒッチュはバイエルンに別荘を購入できるまでに一財産を築いた。しかし、共産主義勢力に取り込まれたブラウヒッチュの動向は西ドイツ当局に警戒されてたびたび追求を受けることになり、1953年9月30日に共産主義者として逮捕され、半年間留置される。1954年に保釈され、その裁判が進められようとしていた矢先、1955年初めにブラウヒッチュはドイツのソビエト地区(東ドイツ)に亡命した。 高名なブラウヒッチュの亡命は東ドイツ政府から歓迎され、1957年に設立された全ドイツモータースポーツ協会(ドイツ語版)(ADMV)の役員を任され、その後は同国のオリンピック委員会(ドイツ語版)の首脳となり、社会主義国である同国で特権階級の一員として余生を楽しんだ。この立場のため、ある程度の行動の自由が認められ、時折り西ドイツを訪問してダイムラー・ベンツのイベントに参加することもあった。 1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一された後は年齢もあって隠居し、2003年に旧東ドイツ領であるテューリンゲン州シュライツ(英語版)の自宅で死去した。97歳の大往生であり、1930年代のメルセデスチームのドライバーの中では最も長寿を保ち、21世紀になってから死去した唯一の人物となった。
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