東ドイツへの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:44 UTC 版)
「汎ヨーロッパ・ピクニック」の記事における「東ドイツへの影響」の解説
翌日の社会主義統一党の政治局会議では出席者はハンガリーの対応を非難したが、ホーネッカーがまだ療養中で不在だったために結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することもできなかった。既に政治局員の間でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった。 そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた。プラハの西ドイツ大使館では、9月以降毎日100人以上の東ドイツ人が柵を乗り越えて押しかけ、9月末にはその数は4000人に達していた。この国境開放で9月末までに約3万人がオーストリアに逃れた。 10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになり、ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していくことになった。ホーネッカーに事態を収拾出来る力はなかった。結局10月18日にホーネッカーは退陣に追い込まれ、ついには1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に行き着くことになる。
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