東ドイツへの乗り入れとは? わかりやすく解説

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東ドイツへの乗り入れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:12 UTC 版)

インターシティ (ドイツ)」の記事における「東ドイツへの乗り入れ」の解説

東西ドイツ分断以来西ドイツ東ドイツおよび西ベルリンの間には、少数急行列車のみが直通列車として運行されていた。しかし1989年11月9日ベルリンの壁崩壊により、直通列車需要急増した1990年5月27日、IC154/155「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」(フランクフルト・アム・マイン - ライプツィヒ) が初め東ドイツ乗り入れたインターシティとなった1990年8月1日ベルリン - ハンブルク間で運転を始めたIC130, 139マックス・リーバーマン」は、初めベルリン乗り入れたインターシティであり、東西ドイツ再統合象徴するものとして受け取られた。ベルリン発着インターシティは、当初ベルリン - ハノーファー間で西ドイツ国鉄 (DB) と東ドイツ国鉄 (DR) の車両使い往復運行する予定であった。しかし東ドイツ車両インターシティとしての水準満たさない判断されたため、元西ドイツ国鉄インターシティ気動車である601気動車利用することになった。また運行区間は、西ドイツ国鉄西ベルリン管理局長である Chirstian Siegert の発案により、戦前フリーゲンダー・ハンブルガー伝統引き継ぐべくベルリン - ハンブルク間に変更された。601型はこの時にはすでに西ドイツ国鉄からは除籍されており、イタリアのFERVET社に売却されいたもの東ドイツ国鉄借りる形で、東ドイツ国鉄所属車として運転された。9月30日からはマックス・リーバーマン客車列車変更されている。 これらの列車インターシティという種別ではあるが、ネットワーク化されていない単発列車である。旧東ドイツ地域本格的にインターシティ網に組み込まれるのは1991年以降となる。なお東西ドイツ1990年10月3日国家としては統合されたが、鉄道組織1994年ドイツ鉄道発足まで分離されたままであった

※この「東ドイツへの乗り入れ」の解説は、「インターシティ (ドイツ)」の解説の一部です。
「東ドイツへの乗り入れ」を含む「インターシティ (ドイツ)」の記事については、「インターシティ (ドイツ)」の概要を参照ください。

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