明糖事件
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1932年(昭和7年)、明糖事件または明治製糖事件と呼ばれる脱税疑惑事件が持ち上がる。事件は最終的に、税金に関する大蔵省と警視庁の見解の違いと判明し、大蔵省黙認の話であったとして、明治製糖に対して追徴金及び罰金72万8千円という比較的軽い処分に終っている。ただし、当時は政党政治時代の終焉期であり、国民の政党や財閥に対する不信感を背景に、政友会と民政党との対立の影響を受け、新聞の大衆迎合主義的な大企業批判によって、非常に大きな事件として世間を騒がせることになった。 事件は、1931年(昭和6年)に脱税に関して明治製糖に対する告発があり、取り調べられたことに始まった。後に分かったことだが、輸入砂糖の規定時間外の荷揚げ作業に不満を持つ従業員が、これを脱税のためと誤信して触れ回ったため、その情報が回りまわって横浜検事局の知る所となり、それがさらにマスコミに伝わって報道されたのがきっかけだった。この時も新聞はかなり書きたてていたが、時の政権与党が明治製糖寄りの民政党だったこともあり、すぐに終息した。ところが1931年(昭和6年)に犬養毅内閣が誕生して政権が政友会へと移ったため、民政党への格好の攻撃材料としてこの事件は徹底的に調べられた。 調べが進むに従って、明治製糖が事態の早期終息を図って事件を糾弾する一部勢力に金品を渡していたことが発覚したため、事件はかえって大きく取り上げられることになった:16。さらに、明治製糖が事件を揉み消すために民政党に30万円の手形などを渡したと新聞で報じられたため(これは事実ではなかった)、ついに警視庁により、相馬ら明治製糖幹部を拘留しての取り調べが行われた。 相馬が拘留されたのは1932年4月14日だった。記録好きな相馬は、その詳細を自伝『古稀小記』に記している。それによると、警視庁の警部が取り調べを行い、相馬に対して経理上の不正を問い詰めたが、相馬は知らぬとの一点張りで通している。取り調べは強硬だったが、それ以外の留置所での待遇は比較的丁寧だった。相馬の入った留置所は直前まで血盟団事件の幹部が使っていた比較的清潔な一人部屋だった。朝食は一合の白飯と一椀の味噌汁と漬物、昼食には副食として肉または魚が付き、夜は野菜であった。もっとも同時期に収監された部下の有嶋は、拘留中の冷えにより、その後季節の変わり目にしばしば喘息を起こすようになっている:256。5月2日には市ヶ谷刑務所に移され、5月11日に解放された。この4日後にいわゆる五・一五事件が起こっている。 大々的な取り調べにも関わらず、警視庁が事件性ありと判定できたのは、粗糖の非課税区分を巡っての不正が見つかったのみだった。当時純度95%未満の糖は粗糖(原糖)とされ、非課税対象だった。ところが台湾での明治製糖の技術力が上がり、粗糖の段階で純度95%を超えることが時々起こった。これは特号という扱いで規則では課税対象となったため、明治製糖の技術者が検査の際に不当に純度を低く申告することがあった。相馬もこの事実を知らず、一方でこの会計処理は大蔵省も黙認のことであったが、結局これだけは罰金と追徴金の対象となった。相馬は回想録の中で「かかる小刀細工の結果がこの大事件を起こしたことになったのは、まことに遺憾至極のことであった」と述べている:36。 この事件は政党政治と大企業に不満を持つ新聞や右翼の格好のネタになった。例えば全日本興国同志会は1932年の書籍の中で、明治製糖が関直彦、中島守利、西岡竹次郎に便宜を依頼したとして、「かくては実に会社と既成政党とは共に国家の害虫であると断ずべきである」と結んでいる:131。あるいは同じ1932年に報知新聞は、税務署長である相馬の娘婿敏夫が明治製糖株を巡って怪しげな動きをしていたとの報道を行っている。また、1932年8月からの臨時議会では、政友会の浜田国松、津雲国利らが政府(岡田内閣)を追及している:34。 相馬は明糖事件に責任を感じ、1932年10月に明治製糖社長を一時辞任している。本社2階に重役が集まって辞任の経緯が説明された際、腹心の部下有嶋は声を上げて泣いた。それに釣られて相馬も大声で泣き出している:270。この時、部下の有嶋も辞任を希望したが、相馬に差し止められている:巻末9。 この事件は相馬に大きな印象を与えており、後にこの様子をたびたび家族に語って涙を流すこともあったという:291。相馬は社長辞任後も明治製糖に残り、後任社長の原邦造を助けた。少し後の1934年(昭和9年)に帝人事件が発生すると明糖事件は影が薄くなったが、同年、相馬が社長復帰しようとすると大蔵省は時期が悪いと暗に差し止めている。この様子を1935年(昭和10年)の國民新聞は「相馬君の仕事の手口は総体に陰性で人目に立たぬ為、色々に言われる」と記している。
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