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原邦造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 08:24 UTC 版)

原邦造

原 邦造(はら くにぞう、1883年明治16年〉6月19日[1] - 1958年昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中[1]

経歴

大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で[2][注釈 1]、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる[1]第三高等学校を経て[2]1907年京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社[1]

第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した[1]1940年には取締役を務めていた東武鉄道根津嘉一郎吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた[3]。1941年に帝都高速度交通営団総裁へ就任することとなり、東武の社長職を根津の長男である藤太郎(のち2代目根津嘉一郎を襲名)に禅譲した[4]

さらに、三井銀行取締役、東洋高圧工業取締役、三井生命取締役、東京ガス取締役、王子製紙取締役などを歴任した[1]1949年に室町物産会長に就任し、1954年三井物産相談役に就任した[1]1953年9月に日本航空会長に就任した[5]日本銀行政策委員も務めた[1]

1958年3月30日心筋梗塞のために死去[6]。74歳没。墓所は多磨霊園[7]

家族

脚注

注釈

  1. ^ 『人事興信録 第16版 下』は47頁では兵庫県朝来郡山口村(現在の朝来市)であるが、これは養父原六郎の出身地で戸籍上のもの。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 人事興信所 1957, は47頁.
  2. ^ a b 『大日本人物史』は40-41頁。
  3. ^ 東武鉄道年史編纂事務局 編『東武鉄道六十五年史』東武鉄道、1964年、950頁。NDLJP:2504143/1049 
  4. ^ 「財人動静 事業会社の部 東武鉄道」『実業の世界』第38巻第8号、実業之世界社、1941年8月1日、169頁、NDLJP:10293270/89 
  5. ^ 1953年 9月24日 読売新聞 夕刊 p1
  6. ^ 1958年 3月31日 読売新聞 夕刊 p5
  7. ^ 原 邦造”. www6.plala.or.jp. 2024年12月6日閲覧。

参考文献

  • 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年。
  • 人事興信所 編『人事興信録 第16版 下』人事興信所、1957年。 
先代
吉野伝治
東武鉄道社長
第3代:1941年
次代
根津嘉一郎 (2代目)



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