原邦造
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原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日[1] - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中[1]。
経歴
大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で[2][注釈 1]、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる[1]。第三高等学校を経て[2]1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社[1]。
第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した[1]。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた[3]。1941年に帝都高速度交通営団総裁へ就任することとなり、東武の社長職を根津の長男である藤太郎(のち2代目根津嘉一郎を襲名)に禅譲した[4]。
さらに、三井銀行取締役、東洋高圧工業取締役、三井生命取締役、東京ガス取締役、王子製紙取締役などを歴任した[1]。1949年に室町物産会長に就任し、1954年に三井物産相談役に就任した[1]。1953年9月に日本航空会長に就任した[5]。日本銀行政策委員も務めた[1]。
1958年3月30日、心筋梗塞のために死去[6]。74歳没。墓所は多磨霊園[7]。
家族
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第16版 下』人事興信所、1957年。
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