年齢主義の導入とは? わかりやすく解説

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年齢主義の導入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:59 UTC 版)

年齢主義と課程主義」の記事における「年齢主義の導入」の解説

1885年明治18年)には、これまで6ヶ月だった小学校1等級の期間が1年変更され現在の学年に近い形となったまた、1891年明治24年)には学年という概念用いられるようになり、等級制から学年制移り変わりはじめた。そうして1900年明治33年)の第三次小学校令では、「試験ヲ用フルコトナク児童平素成績考査」と定められ反対意見もあったが小学校における次学年への進級試験卒業試験廃止された。1925年になると、旧制中学校入学者のうち大体13歳現役)である尋常小学校卒業者50%上回り学年差=年齢差という形態に近づいていった難関中学校浪人多かったが、そうでない学校現役生多かったため、そういった学校ほど学年内の年齢差少なかった。ただし、入学年齢には5歳程度の幅があり、卒業年齢20代後半30代前半という例も見られるまた、師範学校においては一般入試よりも推薦入学のほうが多かったため、旧制中学よりも年齢差少なかったとされる(ただし第二部では年齢層高めかつ広めであった)。こうして、次第年齢主義的な運用に近づいて行き、また実際に年齢差縮小して行ったため、学校において長幼の序重んじられるようになり、年下の者が年上の者を追い越すことが不敬とされ、徐々に年齢階級的な意識広まってきた。そのため、この時代あたりから学年差による年功序列的な「先輩・後輩」関係が現れるようになったとされる一方飛び級飛び入学)については、五年制中学校を四年修了した段階上級学校進学できる四修などで、ある程度認められていた(不破哲三などが体験者)。また、旧制高校においては、ずっと年齢ばらつき大きい状態が続いた明治30年代学校制度では、修業年限小学校6年中学校5年高等学校3年大学3〜4年であり、6歳から就学して留年飛び級浪人をせずに進学していけば、2324歳大学卒業することになるが、上級学校下級学校接続円滑でなかったため、進学難易度高く平均的な大学卒業年齢2627歳であったといわれている。このように、むしろ現役進学者にあたる年齢層の方が少数派ですらあった。学校制度を扱う文献などには、戦前学校系統図掲載されていることがあるが、中には大学院段階まで年齢付記されている場合がある。しかし、特に戦前このように年齢的集約性が低かったので、中等教育以降年齢付記するのはむしろ弊害がある。外国でも同様な図はあるが、高等教育以降年齢付記していない例 や、後期中等教育以降年齢付記していない例 もある。また、図の学校部分網掛けをするなどして「義務教育である」と表示している例も見られるが、完全に課程主義義務教育制度場合問題ないものの、年齢主義義務教育制度場合は、図と異な年齢でその学校在学していた場合現実合致しない表記となってしまうため、問題がある。 なお、戦前においては制度上の年齢主義はさほど強固ではなかったものの、法規によって入学年齢下限定められている例も多かった例え中学校高等女学校はともに12歳下限であり、高等中学校17歳下限であったとはいえ後述のようにわずかにそれよりい年齢での入学あったようだ。なお、戦前・戦後とも法規において年齢下限定められていない学校種は多いが、それでも下級学校卒業入学要件としているので、実質的な下限はあるとみなせる。 現代では学校種ごとの在学年齢統計一部除いて取られておらず、学校基本調査でも特別支援学校高校通信制課程にしか年回答がない。しかし戦前比較在学年齢統計充実しており、府県統計書では小学校年齢項目は見当たらないものの、中学校などの入学・卒業時点年齢については、多くの県で掲載されている。中学校の最低入学年齢はほぼ12歳で、まれに11歳後半の例が見られる程度であるが、明治末期私立中学校27歳入学者がいるなど、最高年齢はかなりばらつきがある。障害者向けの学校はさらに幅広く例えばある県の盲学校は、昭和初期初等部第一学年入学年齢6歳から15歳中等部入学年齢12歳から44歳幅広く、また他県聾唖学校初等部年齢的に幅広いまた、中学校などの落第及第統計取られており、落第者の比率は、明治末期では中学校で1割程度高等女学校ではわずかであり、昭和初期には低下見られる1945年太平洋戦争敗戦受けて1947年学制改革が行われた。これによって義務教育年限9年間となり、年齢相当学年後述)からの飛び級禁止された。終戦からしばらくの間は、小中学校基本的に年齢主義であるものの、貧困から学齢過ぎて就学する人、学齢期でも周囲児童より年齢が高い児童なども多く欠席日数などによる原級留置などもあり、飛び級禁止になった以外は課程主義要素残った。しかし徐々に同一学年同一年になってゆく。もっとも、小中学校における原級留置については、後述のように統計存在しないので数値的に判断不能であるが、時代を下るにつれて減ってきているといわれる一方就学猶予と就学免除については、統計では1970年代を境として著しく減少しているが、これは小学校入学者のうちの就学猶予経験者激減したということ表しているわけではなく1979年養護学校義務教育学校となり、重度障害児全員入学できる制度になったことが大きく影響している。学制改革以来21世紀までに学校制度はほとんど変更されていない一方義務教育期間の終了基準については、学制発布当初から年齢主義と課程主義併用によって決定されていたため、一定の教育課程修了していない場合は、学齢超過するまでは就学義務存在した。たとえば小学校令明治33年)では、「尋常小学校教科修了シタルトキヲ以テ就学終期トス。」となっており、学齢期6歳から14歳までの8年であったこのように当時義務教育期と学齢期が違う概念だった。この課程主義は、1941年国民学校令によって「満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄」とされて完全な年齢主義転換するまで続いた以後現在に至るまで義務教育期間の終了基準年齢主義である。これについては「義務教育」の記事詳述する。 なお、戦時中徴兵観点から、男子に対して定時制義務教育として青年学校制度制定された。これも同年齢層に対す教育前提であった。 なお、戦前出生届医師の証明書が必須ではなかったため、恣意的戸籍上の生年月日操作することも可能であった(特に丙午当たっていた1906年明治39年)など)。戦後生まれでも大島健伸様に学校入学時期早めるために生年月日偽った例もある。

※この「年齢主義の導入」の解説は、「年齢主義と課程主義」の解説の一部です。
「年齢主義の導入」を含む「年齢主義と課程主義」の記事については、「年齢主義と課程主義」の概要を参照ください。

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