年齢主義の導入
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「年齢主義と課程主義」の記事における「年齢主義の導入」の解説
1885年(明治18年)には、これまで6ヶ月だった小学校の1等級の期間が1年に変更され、現在の学年に近い形となった。また、1891年(明治24年)には学年という概念が用いられるようになり、等級制から学年制に移り変わりはじめた。そうして1900年(明治33年)の第三次小学校令では、「試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査」と定められ、反対意見もあったが小学校における次学年への進級試験や卒業試験が廃止された。1925年になると、旧制中学校の入学者のうち大体13歳(現役)である尋常小学校卒業者が50%を上回り、学年差=年齢差という形態に近づいていった。難関中学校は浪人が多かったが、そうでない学校は現役生が多かったため、そういった学校ほど学年内の年齢差は少なかった。ただし、入学時年齢には5歳程度の幅があり、卒業時年齢も20代後半や30代前半という例も見られる。また、師範学校においては一般入試よりも推薦入学のほうが多かったため、旧制中学よりも年齢差は少なかったとされる(ただし第二部では年齢層は高めかつ広めであった)。こうして、次第に年齢主義的な運用に近づいて行き、また実際に年齢差が縮小して行ったため、学校においても長幼の序が重んじられるようになり、年下の者が年上の者を追い越すことが不敬とされ、徐々に年齢階級的な意識も広まってきた。そのため、この時代あたりから学年差による年功序列的な「先輩・後輩」関係が現れるようになったとされる。一方、飛び級(飛び入学)については、五年制中学校を四年修了した段階で上級学校に進学できる四修などで、ある程度は認められていた(不破哲三などが体験者)。また、旧制高校においては、ずっと年齢のばらつきが大きい状態が続いた。 明治30年代の学校制度では、修業年限は小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学3〜4年であり、6歳から就学して留年や飛び級や浪人をせずに進学していけば、23〜24歳で大学を卒業することになるが、上級学校と下級学校の接続が円滑でなかったため、進学の難易度が高く、平均的な大学卒業年齢は26〜27歳であったといわれている。このように、むしろ現役進学者にあたる年齢層の方が少数派ですらあった。学校制度を扱う文献などには、戦前の学校系統図が掲載されていることがあるが、中には大学院段階まで年齢が付記されている場合がある。しかし、特に戦前はこのように年齢的な集約性が低かったので、中等教育以降に年齢を付記するのはむしろ弊害がある。外国でも同様な図はあるが、高等教育以降に年齢を付記していない例 や、後期中等教育以降に年齢を付記していない例 もある。また、図の学校の部分に網掛けをするなどして「義務教育である」と表示している例も見られるが、完全に課程主義の義務教育制度の場合は問題ないものの、年齢主義の義務教育制度の場合は、図と異なる年齢でその学校に在学していた場合に現実と合致しない表記となってしまうため、問題がある。 なお、戦前においては制度上の年齢主義はさほど強固ではなかったものの、法規によって入学年齢の下限が定められている例も多かった。例えば中学校・高等女学校はともに12歳が下限であり、高等中学校は17歳が下限であった。とはいえ後述のようにわずかにそれより若い年齢での入学はあったようだ。なお、戦前・戦後とも法規において年齢の下限が定められていない学校種は多いが、それでも下級学校の卒業を入学要件としているので、実質的な下限はあるとみなせる。 現代では学校種ごとの在学年齢の統計は一部を除いて取られておらず、学校基本調査でも特別支援学校と高校通信制課程にしか年齢回答欄がない。しかし戦前は比較的在学年齢の統計が充実しており、府県統計書では小学校の年齢項目は見当たらないものの、中学校などの入学・卒業時点の年齢については、多くの県で掲載されている。中学校の最低入学年齢はほぼ12歳で、まれに11歳代後半の例が見られる程度であるが、明治末期の私立中学校に27歳の入学者がいるなど、最高年齢はかなりばらつきがある。障害者向けの学校はさらに幅広く、例えばある県の盲学校は、昭和初期の初等部の第一学年入学時年齢は6歳から15歳、中等部の入学時年齢は12歳から44歳と幅広く、また他県の聾唖学校の初等部も年齢的に幅広い。また、中学校などの落第・及第の統計も取られており、落第者の比率は、明治末期では中学校で1割程度、高等女学校ではわずかであり、昭和初期には低下が見られる。 1945年の太平洋戦争の敗戦を受けて、1947年に学制改革が行われた。これによって義務教育年限は9年間となり、年齢相当学年(後述)からの飛び級は禁止された。終戦からしばらくの間は、小中学校は基本的には年齢主義であるものの、貧困から学齢を過ぎて就学する人、学齢期でも周囲の児童より年齢が高い児童なども多く、欠席日数などによる原級留置などもあり、飛び級禁止になった以外は課程主義の要素も残った。しかし徐々に同一学年同一年齢になってゆく。もっとも、小中学校における原級留置については、後述のように統計は存在しないので数値的には判断不能であるが、時代を下るにつれて減ってきているといわれる。一方、就学猶予と就学免除については、統計では1970年代を境として著しく減少しているが、これは小学校入学者のうちの就学猶予経験者が激減したということを表しているわけではなく、1979年に養護学校が義務教育学校となり、重度障害児も全員入学できる制度になったことが大きく影響している。学制改革以来、21世紀までに学校制度はほとんど変更されていない。 一方、義務教育期間の終了基準については、学制発布当初から年齢主義と課程主義の併用によって決定されていたため、一定の教育課程を修了していない場合は、学齢を超過するまでは就学義務が存在した。たとえば小学校令(明治33年)では、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス。」となっており、学齢期は6歳から14歳までの8年間であった。このように当時は義務教育期と学齢期が違う概念だった。この課程主義は、1941年の国民学校令によって「満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄」とされて完全な年齢主義に転換するまで続いた。以後、現在に至るまで義務教育期間の終了基準は年齢主義である。これについては「義務教育」の記事で詳述する。 なお、戦時中は徴兵の観点から、男子に対しての定時制義務教育として青年学校制度が制定された。これも同年齢層に対する教育が前提であった。 なお、戦前は出生届に医師の証明書が必須ではなかったため、恣意的に戸籍上の生年月日を操作することも可能であった(特に丙午に当たっていた1906年(明治39年)など)。戦後生まれでも大島健伸の様に、学校入学時期を早めるために生年月日を偽った例もある。
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