岡田監督時代
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「オリックス・バファローズ」の記事における「岡田監督時代」の解説
2010年 1月23日にシカゴ・カブスを自由契約となっていた田口壮が9年ぶりに復帰。だが、2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで小瀬浩之が転落死する事態が起きた。直後に西武から阿部真宏とのトレードで赤田将吾を獲得。3月20日から3月26日まで1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に一軍バッテリーコーチの三輪隆を二軍バッテリーコーチに降格、二軍バッテリーコーチの吉原孝介を一軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。交流戦に入ると16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの、主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内に留まっていたが、9月26日に日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムには及ばなくなったため、2年連続Bクラス、9月28日に4年ぶりの5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得した。オフに横浜から山本省吾、喜田剛との2対2トレードで寺原隼人、高宮和也を獲得。 2011年 「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブル、バファローベル)を導入した。一方、既存マスコット(ネッピー、リプシー)は引退となった。 4月29日にロッテから金銭トレードで竹原直隆を獲得。交流戦は2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していたため8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった。その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した。9月は18勝6敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦においてオリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が日本ハムに勝利したため、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位に転落し、3年連続のBクラスに沈み、3年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ出場を逃した。オフに李承燁、朴賛浩、加藤大輔、田口壮が退団した。西武から許銘傑、ロッテ・ジャイアンツから李大浩を獲得。 2012年 3月28日にメジャーリーグに挑戦していた井川慶を獲得。4月19日に勝率5割とした以外はすべて勝率5割を切った。月間別勝率でも7月と10月に勝ち越した以外はすべて負け越し、6、8、9月は勝率3割台で、9月には12連敗で球団記録を更新するなど、タイ記録となった9月24日の対ロッテ戦で最下位が確定。25日にシーズンの最後まで指揮を執ることになっていた監督の岡田とヘッドコーチの高代延博が休養し、併せてチーフ野手兼内野守備・走塁コーチの森脇浩司が監督代行として指揮を執ることを発表した。
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岡田監督時代
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2004年 球団成績は4位。10月4日、井川がノーヒットノーランを達成、シーズン後は藪恵壹がFAでMLB・オークランド・アスレチックスへ移籍、伊良部、アリアスが退団、ジェロッド・リガン、八木裕が引退した。オフに広島からアンディ・シーツが移籍。 2005年 ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の3人を「勝利の方程式」に抜擢。驚異的な成績を残し、やがて名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた3人を中心とした投手陣はリーグトップのチーム防御率を記録。この年から導入されたセ・パ交流戦を経て首位に立つと、2位中日に首位を明け渡すことなくリーグ優勝。赤星が5年連続の盗塁王、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝、今岡が球団新記録の147打点を挙げて打点王、金本がMVPを獲得した。しかし、勇躍挑んだ千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは史上初の3試合連続2桁失点を喫し、計4試合で33失点と投手陣が大炎上した。頼みの綱である打線も打点王の今岡と盗塁王の赤星が.143、MVPの金本が.077で第4戦の4回までヒットが出ず12打席連続ノーヒットに加えその第4戦で4度もダブルプレーを喫し1イニングもリードを奪う事ができず、0勝4敗と史上5チーム目の ストレート4連敗で敗退となった。 2006年 夏場の苦戦が響いて中日にマジック点灯を許すが、一時戦線離脱していた藤川球児が復帰第一戦の8月27日の巨人戦で好投して連敗を止めてからは反撃に転じ、結果的には2位に終わるも優勝した中日を最後まで苦しめた。片岡が現役を引退。井川がポスティングシステムでMLB・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍。MLBからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得。 2007年 4月から5月にかけて9連敗し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。借金は最大で9とした一方で、7月を15勝6敗、8月を12勝8敗1分で勝ち越し、9月中旬には巨人、中日と首位を争う事もあった。最終的に3位となり、新設のクライマックスシリーズ(CS)進出を果たした。6年ぶりに勝ち越した中日とのCS1stステージを0勝2敗で敗退。この年は、12球団断トツの中継ぎ陣防御率2.45とJFKを筆頭に強力な中継ぎ陣を武器にした一方で、本来中継ぎ陣をカバーしなければならない先発投手陣が12球団で唯一規定投球回をクリア出来ない始末に加えて、チーム打率・チーム総得点も12球団中最下位だった。上園啓史が新人王を獲得。シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一が入団。 2008年 4月12日に新井が通算1000本安打、金本が通算2000本安打を達成。5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成。開幕から5連勝を果たして首位を独走し、6月4日から6連勝も記録して6月7日に貯金20として交流戦は優勝した福岡ソフトバンクと並んで15勝9敗の好成績。7月に入ると7連勝を記録し6日に両リーグ最速の50勝到達、7連勝目を達成した7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジック46を点灯させる。しかし、北京オリンピック期間中に日本代表として新井、藤川、矢野、オーストラリア代表としてウィリアムスと主力メンバーを派遣して後半戦がスタートすると初戦はモノにするものの8月4日からいきなり5連敗と出鼻を挫かれ北京五輪期間中は5勝8敗と負け越し。北京五輪からの帰国後に新井が五輪出場で腰椎の疲労骨折が発覚し前半戦から不安を抱えていた腰痛がさらに悪化。8月30日の巨人戦から8・9月だけで2度目の5連敗を喫すると、8月はシーズン初の月間負け越し。投手陣は下柳が11勝、3年目の岩田が10勝、安藤がチーム最多の13勝と前年の課題だった先発投手が8月まで力投しながら勝負の9月に入ると先発投手に勝ちがつかなくなってしまい9月の先発投手は3勝と両リーグで最下位に沈んだ横浜と福岡ソフトバンク(どちらも9月は4勝)よりも少なく12球団ワースト。JFKも前年は3人合わせて221試合に登板して防御率が1.51だったのが久保田やウィリアムスの怪我や不調、藤川の五輪出場で3人合わせて187試合と登板機会を減らし防御率も2.33に悪化したのを皮切りに中継ぎ陣の防御率はリーグトップとはいえ2.73に悪化した。一方の打撃陣も.255に518得点と何れも12球団ワーストだった前年からリーグ2位の.268にリーグ3位の578得点と改善されたが9月以降の打率が.246と12球団ワーストに加え108得点とリーグワースト(9月に限ると80得点は71得点の横浜に次ぐブービー)とシーズンが終盤に差し掛かるにつれて得点力が落ち、徐々に9月11日から勝ちを積み重ねた巨人の猛追に遭うと9月19日からの直接対決3連戦をスウィープされ(同一カード3連敗を喫し)、9月21日に同率で首位に並ばれる。その後は一進一退の攻防の末9月の月間成績は11勝11敗で0.5ゲーム差で首位をキープするも9月の月間成績が17勝5敗の巨人に80勝で並ばれ10月3日の東京ヤクルト戦で安藤が6回無失点と好投し5-0とリードした状況でアッチソンとJFKを全て継ぎこみながら逆転負け。この負けが尾を引き10月8日の巨人戦を1-3で落とした事で開幕から守り続けてきた首位から陥落。2日後に巨人が東京ヤクルトに勝ち、横浜スタジアムでの横浜戦に3-4で逆転負けした事で最終的に大逆転を許して巨人に優勝を攫われる結果となった。CS1stステージでは京セラドーム大阪 で中日と対戦するが、藤川球児がウッズに本塁打を打たれるなどして1勝2敗で2年連続の1stステージ敗退。シーズン後、岡田は優勝を逃した責任をとり監督を辞任。真弓明信が後任となった。野口寿浩がFAで横浜に移籍。
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