小長曽陶器窯跡
名称: | 小長曽陶器窯跡 |
ふりがな: | こながそうとうきかまあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 愛知県 |
市区町村: | 瀬戸市東白坂町 |
管理団体: | 瀬戸市(昭48・12・11) |
指定年月日: | 1971.07.13(昭和46.07.13) |
指定基準: | 史6 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成14.03.19 |
解説文: | S44-12-007[[小長曽]こながそ]陶器窯跡.txt: 瀬戸市東部の丘陵にある古瀬戸の窯跡である。瀬戸市周辺にはこれまで800基の古窯が発見されている。うち、古瀬戸の時期に属するのは100基前後であるが、その大部分が盗掘などによって破壊されているなかにあって、本窯跡は最も保存のよいものの一つである。 窯は丘陵の斜面を利用した半地下式の構造である。昭和23年に日本陶磁協会が主催した発掘調査によると、窯は全長6.7メートル、最大幅3メートル、燃焼室と焼成室の境に分焔柱を、焼成室と煙道(あるいは第2焼成室)の境に障壁を設けて、全体を画然と3部分に分かっている。床面は燃焼室がほぼ水平、焼成室と煙道が30度前後の傾斜となっている。発掘の際、焼成室の床面に、多量の馬爪形器台が整然とした配列をとって熔着している状態が検出された。 焼成室と煙道の境にある障壁は、下部に6個の通焔口を設けている。通焔口を分かつ柱は、粘土を充填した[[匣]はこ]を積み上げて構築したものである。このような通焔口を持つ障壁は古瀬戸窯跡には珍しく、のちの連房式登り窯の先駆形態ともいうべきものである。 窯前面の灰原は、盗掘であらされているうえ、林道によって横断されているが、なお多量の陶片を残している。 出土品には、灰釉の[[四耳壺]しじこ]・[[瓶子]へいし]・水注・仏花器・おろし皿・天目釉茶〓(*1)等々がある。陶器にはほとんど文様がなく、古瀬戸焼のなかでは比較的新しい時期のものと考えられる。実年代は室町時代とすべきであろう。 H11-07-056[[小長曽]こながそ]陶器窯跡.txt: 小長曽陶器窯跡は、わが国を代表する焼き物産地の瀬戸にある陶器窯である。この窯は室町時代に窖窯として構築されたものであるが、近世にも利用されたことが文献史料に記されており、窯跡に残る通炎孔はその際の遺構と考えられている。現在、窯体には覆い屋が設置されており、その様子をうかがうことができる。 すでに指定されている範囲は窯体部分であるが、平成8・9年度に瀬戸市教育委員会が周辺の確認調査を実施したところ、窯体に隣接した指定地外において、斜面を造成した工房跡と窯体の周辺に広がる灰原が確認された。工房は3時期にわたる作業面があり、それぞれ2面の平坦面がある。工房にともなう遺構としてはロクロピット、土坑、溝などがある。出土遺物は平碗・天目茶碗・折縁深皿をはじめとした多種多様な陶器のほか若干の窯道具がある。大半は室町時代のものであるが、わずかに近世のものも認められる。 工房と灰原は窯体と一体のものであり、生産技術や製品の技法や器種組成、工人組織を知るうえで大きな意義を有している。よって窯体に加えて工房と灰原を含めた範囲を追加指定し、窯跡全体の保護を図るものである。 |
小長曽陶器窯跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/04 16:24 UTC 版)
![]() 小長曽陶器窯跡 | |
所在地 |
![]() |
---|---|
座標 | 北緯35度13分05秒 東経137度09分48秒 / 北緯35.21806度 東経137.16333度座標: 北緯35度13分05秒 東経137度09分48秒 / 北緯35.21806度 東経137.16333度 |
面積 | 1509 ㎡ |
歴史 | |
時代 | 室町時代 |
小長曽陶器窯跡(こながそうとうきかまあと)は、愛知県瀬戸市東白坂町にある、古瀬戸様式期の瀬戸焼の窯跡である。1971年(昭和46年)7月13日に国の史跡に指定され、2015年(平成27年)10月7日に追加指定された[1]。
概要
瀬戸市東白坂町の猿投山北麓に広がる東京大学愛知演習林赤津事業地内に位置する[2]。1946年(昭和21年)に初めて学術調査が行なわれたのち[2]、1969年(昭和44年)に樹脂による窯体の保存措置や覆屋設置が行なわれ、1971年(昭和46年)には国の史跡に指定されている[3]。
また、1996年(平成7年)から2000年にかけて、瀬戸市埋蔵文化財センターにより窯体周辺や前庭部・工房跡の試掘による範囲確認調査が行なわれ、2002年(平成14年)には史跡の追加指定を受けている。2003年には灰原の調査も行なわれた。なお、平成の再調査に合わせて老朽化していた覆屋も建て替えられている。
室町時代中期の14世紀末から15世紀初頭に丘陵を掘り抜いて築かれた窖窯だが、焼成室中央付近に天井から障壁が垂れ下がる特徴的な構造から、かつては大窯に至る直前の窯の形式と見られていた。天明8年(1788年)の『張州雑志』において「元禄12年(1699年)に再度使用された」旨の記述があったこと、また1996年以降の再調査で江戸時代の遺構や遺物が確認されたことから、室町時代に築窯されたのちに一旦破棄され、江戸時代の元禄期に補修・改造を受けて短い期間だけ再利用されたと考えられるようになった[2]。現在、現地で見ることの出来る窯体の主な部分は元禄期の改築によるものである。
この周辺には室町時代に築窯された窯跡が多数存在しており、本窯は陶祖・加藤景正が用いたという伝説がある。
窯体
丘陵の斜面を利用した窯体の残存長は8.64メートル。幅は焚口で1.11メートルだが焼成室前部(分焔柱の直後)で最大2.82メートルまで広がり、煙道部との境目付近で65センチとなる。床面の傾斜は燃焼室で12度ほどだが焼成室後部で32度を測り、煙道部も30度前後となっている[4]。
燃焼室は床面・側壁に30~60センチの石が埋め込まれており、分焔柱にも焼台が埋め込まれて補強されている[5]。
焼成室は天井部から垂れ下がった障壁と、窯道具のエンゴロを再利用した5本の分焔柱によって前後に分割されており、前部は長さ2.5メートル、天井が失われているが焼台列が残存しており、側壁に補強の痕跡が残る。後部は長さ3.3メートルで最大高さ1.6メートルの天井が残存しているが焼台は無いため[3]、元禄期に後部で焼成が行なわれたかは不明である。
煙道部は床面が剥落し、側面や末端は流出によって失われているため、現存しているのは室町時代に築窯された当時の部分と考えられるという。
窯正面の前庭部では4.0×5.0メートル、深さ1.5メートルの大型土坑と多数のピットが検出されたが、保存のため盛り土を行なったのち覆屋の階段が作られたため現在では見ることは出来ない。灰原は窯前を通る林道から小川にかけての30メートル四方に渡って広がり、各種の陶器や窯道具などが多数出土した。現在も小川の周辺に陶片が見つかることがある。
出土品
1946年の調査時の出土品として江戸時代の窯道具(エブタ)がある。1969年および平成期の発掘調査によって、現在までに室町時代の出土品が約170,000点。元禄期の出土品が約350点を数えるが、元禄期のものは前庭部の大型土坑とその周辺からのみ出土している[6]。また、窯体の東側斜面では中段で排水口と2ヶ所のロクロ穴をもつ工房跡、上段で乾燥場遺構が検出されており、いずれも出土品から室町時代に使用されていたとされる。また煙道部の北側には室町時代の焼台がまとめて投棄されていたという[4]。
出土品から本窯の操業年代は室町時代の14世紀末から15世紀初頭の「古瀬戸後Ⅱ期」、および江戸時代の17世紀末から18世紀初頭にかけてとされている[6]。なお、出土品の一部は市内の瀬戸蔵ミュージアムで展示されている。
室町時代
碗類
- 豆天目
- 小天目
- 天目茶碗
- 浅碗
- 碗
- 平碗
皿類
- 緑釉小皿
- 豆皿
- 折縁小皿
- 卸皿
- 折縁中皿
- 八稜皿
- 輪花皿
盤類
- 折縁深皿
- 直縁大皿
- 卸目付大皿
鉢類
- 小鉢
- 擂鉢形小鉢
- 柄付片口
- 擂鉢
壺・瓶類
- 茶壺
- 四耳壺
- 片口小瓶
- 導式花瓶
- 仏花瓶
- 合子蓋
- 合子
- 水滴
- 瓶子
- 小壺
- 水注
その他
- 手付鍋
- 仏供
- 筒形香炉.
- 香炉
- 袴腰形香炉
- 筒型容器
- 内耳鍋
- 広口壺蓋
- 燭台
江戸時代
茶陶類
- 茶入
- 碗
- 水指
- 擂鉢
参考文献
- 藤澤良祐 『瀬戸窯跡群』、同成社、2005年 ISBN 4-88621-337-5
- 愛知県史偏さん委員会 編、『愛知県史 別編 窯業2 中世・近世 瀬戸系』、愛知県、2007年
脚注
関連項目
- 小長曽陶器窯跡のページへのリンク