富山城と「荒城の月」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 10:04 UTC 版)
詳細は「荒城の月」を参照 土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲の「荒城の月」の着想の基になった城。 富山城は、作詞者晩翠には「荒城月のシナリオテーマ」を与え、且つ、作曲者廉太郎には作曲のモチーフとして育った環境に存在して親しみがあった城である。 富山城は、晩翠も、廉太郎も、共通の着想を得て作詞作曲がつながる点で、唯一奇跡的、且つ、神秘的な城である。晩翠が、謙信を崇敬したことや富山城を取り上げる必然性があった一方で、廉太郎は、数奇にも幼少期に富山城を体験しており、二人は富山城によって共通の題材としてインスパイアされて名作「荒城の月」が産まれたと考えられる。(予め、晩翠と廉太郎は面識はなく、各々作品製作されたものであるが、偶然共通のモチーフを得たものである。) 晩翠は、東京大学大学院法文館に居た。作詞構想にあたって、同地赤門の加賀前田藩邸敷地内にあった支藩藩邸の居城、富山城を題材の一つに取り上げたと見られ、このことは、顕著に一番歌詞、及び、二番歌詞に顕れている。 一番歌詞では、徳川家と松平保容の繋がりを踏まえながらも、「千代の松が枝わけいでし、むかしの光いまいづこ」は、伏線としての徳川家と前田家(富山藩主前田利同)との繋がりまでをも踏まえた構想をしている。 二番歌詞は謙信漢詩「九月十三夜陣中作」を対照化し取込み、「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて」は、越中の陣での和歌「枕に近き初雁の声」も彷彿させており、謙信と神保氏の戦いや立山から、「植うるつるぎ」を着想している。 晩翠は、詩を作るにあたり上杉謙信と神保氏の足跡を辿って、この富山城、及び、石動山城、七尾城、さらに上杉景勝と神保氏、及び、保科家(徳川)が入った会津若松城を巡っている。 一方、廉太郎は、富山城内にあった小学校に毎日通っていた。晩翠と同じ富山城を幼少期に体験して見て育っている。廉太郎は、小学校時代に富山市に暮らしていた。 廉太郎は、「秋に渡来し、翌春まで姿を見せる雁の鳴き声が、富山城を照らす月の夜には、りょうりょうとして特に鋭く聞こえ、今も耳に残っています。」と対談で答えている。 晩翠と廉太郎は、この一番歌詞、二番歌詞においては、顕に、富山城における共通の体験をしており、作品構想時には共通のインスピレーションを得たと考えられる。この効果は、あとに続く三番歌詞、四番歌詞にまで波及して日本歌曲の代表的な名作に至ったと考えられる。 なお、「荒城の月」は、色々なモチーフが組み合わさり完成したと考えられる。ほかに荒城の月のモデルとしては、晩翠がモチーフにしたと明言した福島県鶴ヶ城(会津若松城)や、晩翠の出身地である宮城県仙台市の青葉城、他岩手県九戸城、瀧の出身地である大分県竹田市の岡城等があり、既にご当地が強くアピールをし観光化したことにより特に有名になっている。鶴ヶ城における新島八重の句は、晩翠に「荒城月のシナリオテーマ」を与えたものである。青葉城や九戸城は晩翠が育った環境に存在し親しみがあった城である。岡城は廉太郎が育った環境に存在して親しみがあった城で、作曲のモチーフとして三番歌詞、四番歌詞の情景は岡城と評されるほどで、富山城と対になっている。 また、晩翠は、晩翠が感銘を受けた鶴ヶ城における新島八重の句と共に、富山城と崇敬した謙信の十三夜陣中作の句は対になっており「荒城月のシナリオテーマ」を得ている。両者をつなぐ明確な接点として、会津藩家老の神保内蔵助等の存在と発足当初の東京大学があった安中板倉藩江戸屋敷跡がある。八重の夫、同志社大を設立した新島襄は、この江戸屋敷で育った板倉藩士の子であり、同時に、この江戸屋敷は、かつて板倉藩主は神保氏を養子に迎えて継いだことから、かつての神保屋敷でもあった。晩翠は、晩翠が鶴ヶ城の八重の句を取り上げると同時に、晩翠には富山城と謙信の十三夜陣中作を想起する関係性が整っていた。 八重の句と謙信の十三夜陣中作の句が対照関係にあることから、モチーフとして鶴ヶ城と富山城の位置づけは表裏一体の構図をとってテーマを支える。富山城は、専ら裏側に顕れて戦国や神保氏の出自による鎌倉など遥か遠くに遡った過去を担うが、しかし、富山城は、一つの作品として晩翠と廉太郎を芸術的に結びつけており、名作に至る「荒城の月」の揺り籠を担ったことは他には類例がない点で、大きな意義が、ただ唯一富山城にある。 因みに、元の題名は「古城月」であった。 また、初めは、東京大学(法文館)は、発足当初はこの安中板倉藩江戸屋敷(神保氏邸)跡に建っており、東京音楽学校の前身である音楽取調掛が、発足当初は本郷の前田藩邸跡に建っていた。後に1885年ころ東京大学(法文館)は本郷の前田藩邸跡の音楽取調掛跡に遷って1894年から晩翠が学び、入れ替わって音楽取調掛は上野に遷って東京音楽学校に改まり同1894年から廉太郎が学ぶ。このことは、偶然的にも「荒城の月」の産まれにとって、予め法文館も東京音楽学校も富山城もある種の縁で結んでいる。東京音楽学校は所縁のある法文館に作詞を依頼し、晩翠には作詞に富山城を取り上げる必然性がある。更に、数奇にも幼少期に富山城を体験した廉太郎は東京音楽学校の研究生になっていることから廉太郎が作曲を担うことが加わった。東京音楽学校による作曲の懸賞応募には、廉太郎等他の作曲者奮闘の狙いがある。もしも、例えてこの縁は、あたかも法文館も東京音楽学校も富山城の東京出張所分室の様で、大変単純に「荒城の月」は、富山城の東京出張所分室で作詞作曲された芸術作品と例えられる。富山城と「荒城の月」は明確に結ばれていたことが伺える。
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