富山城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。 元亀3年(1572年)5月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城、白鳥城、富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。8月、謙信は越中へ出陣し、新庄城に布陣。その後、富山城の一揆勢は9月17日未明には小旗を畳んで日宮城方面に退却した(『上杉文書』)。(尻垂坂の戦い参照) 上杉軍は神通川を越えて西進し、翌18日には滝山城にも攻撃を開始し、年末にこれを制圧した。また11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長からの申し出を受け、同盟を締結した。 元亀4年(1573年)正月、椎名康胤方の松倉城が開城。 4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧した。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。
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