大規模な打ちこわしの勃発とは? わかりやすく解説

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大規模な打ちこわしの勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)

天明の打ちこわし」の記事における「大規模な打ちこわしの勃発」の解説

天明7年5月江戸で5月12日1787年6月27日)頃から局地的に小規模な打ちこわし発生していた。5月入ってからの米価暴騰お救い願い対す奉行所拒否など、米価高騰への効果的な対策欠如によって多く人々の生活困窮どん底追いやられ、町奉行所始めとする公儀対す不信決定的となる中、天明7年5月20日1787年7月5日)の夕方から夜にかけて、赤坂米屋搗米屋二、三十軒が打ちこわされた。これが江戸中を荒れ狂い一時無政府状態陥れるほどの大規模な打ちこわし始まりであった同日夜、深川でも打ちこわし始まった明けて天明7年5月21日1787年7月6日)、打ちこわし江戸中心部から周辺部にかけての全域広まった打ちこわし勢は鳴り物として鐘、半鐘鉦鼓太鼓拍子木金盥などを鳴らしながら人々集め、棒や斧、鋤や鍬、そして鳶口などを持ち鳴り物掛け声合図をし、時々休憩取りながら打ちこわし行った最初打ちこわし見物していて途中から参加する場合もあり、そのような人々障子木切れなど打ちこわし現場散乱している物を手にとって打ちこわし行った。そして打ちこわしの標的商家門戸を破る時は大八車用い二階登る時には段梯子用いるなどし、門塀、壁、障子、畳、床など家屋破壊し、米を搗く道具である臼や酒樽帳面などの商売道具箪笥長持などの家具呉服などの家財道具などを壊し、更に米や麦、大豆や酒、醤油味噌などが路上ぶちまけたり川に投げ込むなどした。しかし打ちこわしによって家屋倒壊至ったケース確認されておらず、また5月20日21日段階では打ちこわされ商家の米や麦、大豆などを路上ぶちまける、川に投ずなどといった事態頻発したが、打ちこわし乗じた盗賊行為などはほぼ見られなかった。これは打ちこわし目的民衆苦しみ省みずに米の買占め行い米価高騰引き起こした商人たちへの社会的制裁加えることにあったためと考えられ、また当初打ちこわし乗じた盗賊行為がほぼ見られなかった点や、鳴り物掛け声合図をし、ときどき休憩取りながら打ちこわし行った点などから、打ちこわし勢が高度に組織化され規律ある行動行っていたと見られている。これは江戸打ちこわしについて水戸藩士が「まことに丁寧、礼儀正しく狼藉」を行っていたと記録したり、別の武士の記録にも「打ちこわし勢は一品盗み取ろうとしないと書かれていることからも裏付けられる。 打ちこわし参加した民衆中には「ここに来て打ちこわし参加したのは、米の値段下げ世の中を救うためである」とか、「日頃米を買い占め売り惜しんだ者たちよ、人々苦しみ思い知る良い」などと大声叫んだとの記録残っており、また当時江戸での米流通拠点であった浅草蔵前小網町の辻など、江戸各所に「天下大老町奉行から諸役人に至るまで米問屋結託して賄賂受け取り関八州の民を苦しめている。その罪の故、我ら打ちこわしを行うに至った。もし我々仲間のうち一人でも捕縛し罪に問うことがあれば、大老始め町奉行諸役人に至るまで生かしておかない。我々は幾らでも大勢押し寄せるそのこと厭いはしないかくなる上は人々の生活成り立っていけるような政治実現すること」といった内容書かれ木綿製の旗が立てられたと伝えられている。このことからも打ちこわし参加者主目的が米の価格高騰の中、暴利むさぼる商人たちへの社会的制裁、そしてそのような商人たち結託し民衆省みず仁政行おうとしない幕府政治対す批判更には米価下げ世を救うことを要求するといった点にあることが示唆される打ちこわし勢い天明7年5月22日1787年7月7日)も衰えず江戸中の騒乱状態は続いた22日頃から打ちこわし変化見え出した。まず大坂打ちこわしでも見られた、米屋に対して米の安売り強要する押買見られるようになった押買打ちこわし勢が米の安売り強要し拒絶すれば打ちこわし待っていたため、多く米屋要求を呑まざるを得なかった。しかし当時の米の価格よりも安価ではあるが打ちこわし勢は対価払っており、またもうこれ以上は無理と言われればそれ以上押買強要避けたとされ、全体として統制取れていて略奪とは異な行動であったとされる。 また22日頃からは打ちこわし混乱乗じた盗み見られるようになった開始当初打ちこわしのみ行い米や金銭などを盗む行為はほとんど見られなかったが、次第に米を拾い盗む者が目立つようになり、やがて打ちこわし混乱乗じて盗賊が米や金銭衣類などを奪うという事態が目立つようになった大規模な打ちこわし前にしても、当初町奉行所反応鈍かった打ちこわしによって江戸中が大混乱陥る中、江戸城中では寺社奉行勘定奉行町奉行三奉行が対応を協議したが、なぜ町奉行騒動鎮静化のために現場出向かないのかと批判されると、町奉行曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言対し勘定奉行久世広民が、「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態町奉行現場出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した結局町奉行曲淵景漸打ちこわし鎮静化を図るために現場出向くことになったが、町奉行捕縛をする役人たちは打ちこわし勢から、「普段奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となって何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」。とか、さらには「今、江戸中の人々は皆同じよう苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手差し伸べらず見殺しにされている、まことにむごく不仁御政道でございますなあ」。などとの罵声浴び町奉行側も打ちこわし勢を片っ端から捕縛することはなく、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。実際町奉行の手勢が大勢打ちこわし勢の挟み撃ち遭って多く死人けが人出したり、打ちこわし勢を捕縛しようとした同心簀巻きされたり十手取られてしまうなどの事態発生した。 もはや事態が町奉行の手には負えない判断されたため、天明7年5月23日1787年7月8日)、長谷川平蔵先手組10名に市中取り締まり命じ騒動起こしている者を捕縛し町奉行引き渡し状況によっては切り捨てて構わないとされた。しかし実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組2組過ぎず残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであった。そして天明7年5月24日1787年7月9日)には町奉行所から騒動起こした場所にいる者は見物人ともども捕らえること、米の小売督励と米の隠匿禁じ町触出た。この町触からは打ちこわし勢ばかりではなく見物人簡単に打ちこわし参加する状態であったことが見て取れる天明7年5月23日1787年7月8日)からは打ちこわしからの自衛のため、各町内木戸常時閉められ竹槍鳶口などで武装した番人警備行い木戸の無い町では急遽竹矢来設置するなどして、打ちこわし勢の侵入を防ぐ手立て講じられるようになった。また後述のように町内困窮者に対す施行始まり更には遅ればせながら幕府による支援策も具体化して24日には田町打ちこわしが行なわれたものの、翌天明7年5月25日1787年7月10日)には江戸打ちこわしはほぼ沈静化した。

※この「大規模な打ちこわしの勃発」の解説は、「天明の打ちこわし」の解説の一部です。
「大規模な打ちこわしの勃発」を含む「天明の打ちこわし」の記事については、「天明の打ちこわし」の概要を参照ください。

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