大規模な打ちこわしの勃発
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「天明の打ちこわし」の記事における「大規模な打ちこわしの勃発」の解説
天明7年5月、江戸では5月12日(1787年6月27日)頃から局地的に小規模な打ちこわしが発生していた。5月に入ってからの米価の暴騰、お救い願いに対する奉行所の拒否など、米価高騰への効果的な対策の欠如によって多くの人々の生活が困窮のどん底に追いやられ、町奉行所を始めとする公儀に対する不信が決定的となる中、天明7年5月20日(1787年7月5日)の夕方から夜にかけて、赤坂の米屋、搗米屋二、三十軒が打ちこわされた。これが江戸中を荒れ狂い、一時無政府状態に陥れるほどの大規模な打ちこわしの始まりであった。同日夜、深川でも打ちこわしが始まった。 明けて天明7年5月21日(1787年7月6日)、打ちこわしは江戸の中心部から周辺部にかけての全域に広まった。打ちこわし勢は鳴り物として鐘、半鐘、鉦鼓、太鼓、拍子木、金盥などを鳴らしながら人々を集め、棒や斧、鋤や鍬、そして鳶口などを持ち、鳴り物や掛け声で合図をし、時々休憩を取りながら打ちこわしを行った。最初は打ちこわしを見物していて途中から参加する場合もあり、そのような人々は障子の桟や木切れなど打ちこわしの現場に散乱している物を手にとって打ちこわしを行った。そして打ちこわしの標的の商家の門戸を破る時は大八車を用い、二階に登る時には段梯子を用いるなどし、門塀、壁、障子、畳、床など家屋を破壊し、米を搗く道具である臼や杵、酒樽や桶、帳面などの商売道具、箪笥、長持などの家具、呉服などの家財道具などを壊し、更に米や麦、大豆や酒、醤油、味噌などが路上にぶちまけたり川に投げ込むなどした。しかし打ちこわしによって家屋の倒壊に至ったケースは確認されておらず、また5月20日、21日の段階では打ちこわされた商家の米や麦、大豆などを路上にぶちまける、川に投ずなどといった事態が頻発したが、打ちこわしに乗じた盗賊行為などはほぼ見られなかった。これは打ちこわしの目的が民衆の苦しみを省みずに米の買占めを行い、米価高騰を引き起こした商人たちへの社会的制裁を加えることにあったためと考えられ、また当初打ちこわしに乗じた盗賊行為がほぼ見られなかった点や、鳴り物や掛け声で合図をし、ときどき休憩を取りながら打ちこわしを行った点などから、打ちこわし勢が高度に組織化された規律ある行動を行っていたと見られている。これは江戸打ちこわしについて水戸藩士が「まことに丁寧、礼儀正しく狼藉」を行っていたと記録したり、別の武士の記録にも「打ちこわし勢は一品も盗み取ろうとしない」と書かれていることからも裏付けられる。 打ちこわしに参加した民衆の中には「ここに来て打ちこわしに参加したのは、米の値段を下げ、世の中を救うためである」とか、「日頃米を買い占め売り惜しんだ者たちよ、人々の苦しみを思い知るが良い」などと大声で叫んだとの記録が残っており、また当時、江戸での米流通拠点であった浅草蔵前や小網町の辻など、江戸各所に「天下の大老、町奉行から諸役人に至るまで米問屋と結託して賄賂を受け取り、関八州の民を苦しめている。その罪の故、我らは打ちこわしを行うに至った。もし我々仲間のうち一人でも捕縛して罪に問うことがあれば、大老を始め町奉行、諸役人に至るまで生かしてはおかない。我々は幾らでも大勢で押し寄せるしそのこと厭いはしない、かくなる上は人々の生活が成り立っていけるような政治を実現すること」といった内容が書かれた木綿製の旗が立てられたと伝えられている。このことからも打ちこわし参加者の主目的が米の価格高騰の中、暴利をむさぼる商人たちへの社会的制裁、そしてそのような商人たちと結託し、民衆を省みず仁政を行おうとしない幕府の政治に対する批判、更には米価を下げ世を救うことを要求するといった点にあることが示唆される。 打ちこわしの勢いは天明7年5月22日(1787年7月7日)も衰えず、江戸中の騒乱状態は続いた。22日頃から打ちこわしに変化が見え出した。まず大坂の打ちこわしでも見られた、米屋に対して米の安売りを強要する押買が見られるようになった。押買は打ちこわし勢が米の安売りを強要し、拒絶すれば打ちこわしが待っていたため、多くの米屋は要求を呑まざるを得なかった。しかし当時の米の価格よりも安価ではあるが打ちこわし勢は対価を払っており、またもうこれ以上は無理と言われればそれ以上の押買の強要は避けたとされ、全体としては統制が取れていて略奪とは異なる行動であったとされる。 また22日頃からは打ちこわしの混乱に乗じた盗みが見られるようになった。開始当初は打ちこわしのみ行い米や金銭などを盗む行為はほとんど見られなかったが、次第に米を拾い盗む者が目立つようになり、やがて打ちこわしの混乱に乗じて盗賊が米や金銭、衣類などを奪うという事態が目立つようになった。 大規模な打ちこわしを前にしても、当初、町奉行所の反応は鈍かった。打ちこわしによって江戸中が大混乱に陥る中、江戸城中では寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行が対応を協議したが、なぜ町奉行が騒動の鎮静化のために現場に出向かないのかと批判されると、町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民が、「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した。結局町奉行の曲淵景漸は打ちこわし鎮静化を図るために現場に出向くことになったが、町奉行や捕縛をする役人たちは打ちこわし勢から、「普段は奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となっては何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」。とか、さらには「今、江戸中の人々は皆同じように苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手が差し伸べらず見殺しにされている、まことにむごく不仁な御政道でございますなあ」。などとの罵声を浴び、町奉行側も打ちこわし勢を片っ端から捕縛することはなく、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。実際、町奉行側の手勢が大勢の打ちこわし勢の挟み撃ちに遭って多くの死人、けが人を出したり、打ちこわし勢を捕縛しようとした同心が簀巻きにされたり、十手を取られてしまうなどの事態が発生した。 もはや事態が町奉行の手には負えないと判断されたため、天明7年5月23日(1787年7月8日)、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないとされた。しかし実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組は2組に過ぎず、残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであった。そして天明7年5月24日(1787年7月9日)には町奉行所から騒動を起こした場所にいる者は見物人ともども捕らえること、米の小売の督励と米の隠匿を禁じる町触が出た。この町触からは打ちこわし勢ばかりではなく、見物人も簡単に打ちこわしに参加する状態であったことが見て取れる。 天明7年5月23日(1787年7月8日)からは打ちこわしからの自衛のため、各町内の木戸が常時閉められ、竹槍、鳶口などで武装した番人が警備を行い、木戸の無い町では急遽竹矢来を設置するなどして、打ちこわし勢の侵入を防ぐ手立てが講じられるようになった。また後述のように町内で困窮者に対する施行が始まり、更には遅ればせながら幕府による支援策も具体化して、24日には芝や田町で打ちこわしが行なわれたものの、翌天明7年5月25日(1787年7月10日)には江戸打ちこわしはほぼ沈静化した。
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