四十七士
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氏名事柄(役職、禄高、役割、享年、辞世など)大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしお(よしたか)国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。 大石主税良金おおいしちからよしかね部屋住み。大石良雄の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。 原惣右衛門元辰はらそうえもんもととき足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。 片岡源五右衛門高房かたおかげんごえもんたかふさ側用人・児小姓頭、350石(譜代)。忠臣蔵では浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。 堀部弥兵衛金丸ほりべやへえかなまる(あきざね)前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。 堀部安兵衛武庸ほりべやすべえたけつね馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部金丸の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。 吉田忠左衛門兼亮よしだちゅうざえもんかねすけ足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。 吉田沢右衛門兼貞よしださわえもんかねさだ部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。 近松勘六行重ちかまつかんろくゆきしげ馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。 間瀬久太夫正明ませきゅうだゆうまさあき大目付、200石役料50石(二代)。享年63。 間瀬孫九郎正辰ませまごくろうまさとき部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。 赤埴源蔵重賢あかばねげんぞうしげかた馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。 潮田又之丞高教うしおだまたのじょうたかのり郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。 富森助右衛門正因とみのもりすけえもんまさより馬廻・使番、200石(二代)。享年34。辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。 不破数右衛門正種ふわかずえもんまさたね元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34。 岡野金右衛門包秀おかのきんえもんかねひで部屋住み。美男で忠臣蔵の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れている。享年24。辞世は「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」。 小野寺十内秀和おのでらじゅうないひでかず京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。辞世は「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」。 小野寺幸右衛門秀富おのでらこうえもんひでとみ部屋住み。小野寺秀和の養子。享年28。辞世は「今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん」。 木村岡右衛門貞行きむらおかえもんさだゆき馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。享年46。辞世は「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」。 奥田孫太夫重盛おくだまごだゆうしげもり武具奉行・江戸定府、150石(新参)。仇討ち急進派の中心人物。享年57。 奥田貞右衛門行高おくださだえもんゆきたか部屋住み。奥田重盛の養子。近松勘六の異母弟。享年26。 早水藤左衛門満尭はやみとうざえもんみつたか馬廻、150石(二代)。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年40。辞世は「地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに」。 矢田五郎右衛門助武やだごろうえもんすけたけ馬廻・江戸定府、150石(二代)。享年29。 大石瀬左衛門信清おおいしせざえもんのぶきよ馬廻、150石(譜代)。享年27。 礒貝十郎左衛門正久いそがいじゅうろうざえもんまさひさ物頭・側用人、150石(新参)。享年25。 間喜兵衛光延はざまきへえみつのぶ勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。辞世は「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」。 間十次郎光興はざまじゅうじろうみつおき部屋住み。間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。享年26。辞世は「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」。 間新六郎光風はざましんろくろうみつかぜ間光延の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。辞世は「思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを」。 中村勘助正辰なかむらかんすけまさとき書物役、100石(譜代)。享年46。辞世は「梅が香や日足を伝ふ大書院」。 千馬三郎兵衛光忠せんば(ちば)さぶろべえみつただ馬廻、100石(二代)。享年51。 菅谷半之丞政利すがやはんのじょうまさとし馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。 村松喜兵衛秀直むらまつきへえひでなお扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。辞世は「命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん」。 村松三太夫高直むらまつさんだゆうたかなお部屋住み。村松秀直の長男。享年27。辞世は「極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人」。 倉橋伝助武幸くらはしでんすけたけゆき扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。 岡嶋八十右衛門常樹おかじまやそえもんつねしげ札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。原惣右衛門の弟。享年38。 大高源五忠雄おおたかげんごただお(ただたけ)金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。小野寺秀富の兄。吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。俳諧をよくして俳人宝井其角と交流があり、これをもととして「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年32。辞世は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」。 矢頭右衛門七教兼やとう(やこうべ)えもしちのりかね部屋住み(譜代)。父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死した。享年18。 勝田新左衛門武尭かつたしんざえもんたけたか札座横目、15石3人扶持(譜代)。享年24。 武林唯七隆重たけばやしただしちたかしげ馬廻、15両3人扶持(二代)。吉良義央の養子吉良義周と切り結び負傷させ、炭小屋に隠れていた吉良義央を討ち取った。享年32。辞世は「三十年来一夢中 捨レ身取レ義夢尚同 双親臥レ病故郷在 取レ義捨レ恩夢共空」(「レ」は漢詩文訓読の返り点)。 前原伊助宗房まえばらいすけむねふさ金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。辞世は「春来んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪」。 貝賀弥左衛門友信かいがやざえもんとものぶ中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。吉田兼亮の弟。享年54。 杉野十平次次房すぎのじゅうへいじつぎふさ札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。 神崎与五郎則休かんざきよごろうのりやす徒目付、5両3人扶持(新参)。享年38。辞世は「余の星はよそ目づかひや天の川」。 三村次郎左衛門包常みむらじろうざえもんかねつね台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。 横川勘平宗利よこかわかんべいむねとし徒目付、5両3人扶持(新参)。12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。辞世は「まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ」。 茅野和助常成かやのわすけつねなり横目付、5両3人扶持(新参)。享年37。辞世は「天の外はあらじな千種たに本さく野辺に枯るると思へは世や命咲野にかかる世や命」。 寺坂吉右衛門信行てらさかきちえもんのぶゆき吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。
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