同盟失敗の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)
「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「同盟失敗の原因」の解説
なぜフランク・モンゴルの同盟が決して現実にならなかったか、そして、なぜそれがあらゆる外交折衝があったにも関わらず、想像上の「キメラ」またはファンタジーのままであったのか、歴史家の間で多くの議論がなされてきた。多くの理由が提案されてきた。一説には、彼らの帝国の活動範囲として、モンゴル人は西側に拡大することに全て集中するというわけではなかったということである。13世紀後半までには、モンゴルのリーダーは偉大なチンギス・カンから数世代離れており、内部分裂が始まっていた。チンギス・カンの統一の最初は遊牧民だったモンゴル人は、より定住するようになり、征服者から統治者に変わった。モンゴル民族に対するモンゴル民族の戦いが発生するようになり、モンゴル軍はシリア正面から去った。聖地のイルハン朝のモンゴル人と、東欧でポーランドやハンガリーを攻撃していたジョチ・ウルスのモンゴル人の違いについて、欧州の中にも混同があった。モンゴル帝国の中で、イルハン朝とジョチ・ウルスは互いを敵と考えていたが、しかし、西側の第三者である西欧がモンゴル帝国の異なる地域を区別することが出来るまでには時間がかかった。モンゴルの側でも、特に欧州で十字軍を継続することへの関心が減少していたため、現時点で西欧がどの程度の兵力を集中させることが出来るかについて、懸念もあった。モンゴルペルシャの宮廷歴史家は、イルハン朝とキリスト教西欧諸国との間のコミュニケーションには全く言及せずに、西欧諸国についてのみ言及していた。モンゴル人にとって連絡を取ることは明らかに重要には見えないため、困惑させた可能性があると考えられる。モンゴルの君主ガザン (1295年以降イスラム教に改宗) は、エジプトで彼と同じイスラム教徒に対して、異教徒の援助を得ようとするものとして知られていたくなかったのかもしれない。モンゴルの歴史家が外国の領域を書き留める時、領域は通常、「敵」か、「征服地」か、あるいは「反乱地域」として分類された。そのような状況で、征服すべき敵地として、欧州はエジプトと同じカテゴリーに挙げられていた。「同盟国」という認識は、モンゴル人とは無縁だった。 一部のヨーロッパの君主は積極的にモンゴルの問合せに応じたが、実際に軍隊と物資の派遣を頼まれると、曖昧で回避的になった。エジプトのマムルーク軍はさらなる十字軍の派遣を強く心配したため、マムルーク軍が新たに城や港を攻略するたびに、それを占領せずに、二度と決して使われることができないように徹底的に破壊したため、欧州側の物流経路もより困難になった。このことは作戦を継続する上で十字軍にとって、より困難さを増し活動の出費を増やした。西欧の君主は、彼らの臣下に感情的に訴える方法として、十字軍に参加する考えにしばしばリップサービスを与えたが、しかし実際は、彼らは準備に何年もかけて、時には実際にレヴァント地域へ決して出発しなかった。欧州での地域紛争 (例えばシチリア晩祷戦争) も集中できない理由になり、欧州の貴族らは自らの軍隊を自領でより必要とするようになり、十字軍に預けたいと考えることもなくなってしまった。 欧州側ではまた、モンゴルの長期目標も心配した。初期のモンゴルの外交は、単純な協力の申し入れでなく服従を求める直接の要求だった。モンゴルの使節がより懐柔的なトーン使い始めたのは、後期の通信だけだったが、それでも彼らは、嘆願よりもまだ多くの命令を意味した言葉を使用した。欧州とモンゴルの同盟について最も熱心な提唱者だったアルメニアの歴史家コリコスのヘイトン(英語版)でさえも、モンゴルの指導者が欧州のアドバイスを聞きたいとは思っていないと率直に認めている。彼の忠告は、たとえ一緒に働くとしても、モンゴルの傲慢さを考慮すると、欧州の十字軍とモンゴル軍の接触は避けなければならないということだった。欧州の君主らは、モンゴルが聖地で立ち止まるだけで満足しておらず、世界支配のはっきりした野望があることを分かっていた。モンゴルが西欧諸国との同盟を成功裏に成し遂げて、マムルーク朝のスルタン国家を滅亡させたならば、結局、彼らはキプロスやビザンチン地域の欧州国家に確実に食ってかかっただろう。彼らはまた、きっとエジプトを征服し、そこからムワッヒド朝やマリーン朝まで邪魔になる強国もないアフリカのマグレブ地方への前進を続けることが可能だった。 そして最後に、モンゴルとの同盟について欧州の一般民衆の間で多くの支持はなかった。欧州の作家は、聖地を回復する最良の方法についての彼らの考えについて「回復」文献を作成していったが、実際の可能性としてモンゴル人に言及した人はごくわずかだった。1306年、教皇クレメンス5世が十字軍の継続についての提案を示すように、軍司令官のジャック・ド・モレーとフルク・ド・ヴィラレ(英語版)に尋ねた時、彼らはどちらもモンゴルとの同盟について少しも考慮に入れなかった。彼らは2、3の提案の後で、モンゴルについて、シリアを侵略することやマムルーク朝の群の気をそらしておくことは出来ても、共同作戦が期待できる力はないと簡単に説明しただけだった。
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