各ワークスの動向
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「1992年のドイツツーリングカー選手権」の記事における「各ワークスの動向」の解説
アウディ 1992年のDTMにアウディはSMS、AZRの2チームから4台のクワトロをエントリーさせた。最低重量は2年連続のドライバー・タイトルの獲得により1300kgとされた。これにより戦績が低迷したため、6月になって最低重量は1250kgに緩和された。アウディは1992年仕様のクワトロのエンジンに新設計のクランクシャフトを組み込んでいたが、シーズン中盤になってDTMのレギュレーションを統括するONS(ナショナル・モータースポーツ協会)に違反とされたため、アウディはシーズン途中でDTMから撤退することになった。優勝も4WD車が得意とする雨の中開催された第2戦・ニュルブルクリンクの第1レースでフランク・ビエラが挙げた1勝のみに終わった。 メルセデス・ベンツ 1992年のDTMにメルセデス・ベンツはAMG、MS、ザクスピードから8台の190E2.5-16エボリューションIIをエントリーさせた。前年までメルセデス陣営の一角として活躍していたスノーベックはフランス・ツーリングカー選手権に活躍の場を移した。AMGは前年から残留のクラウス・ルドヴィック、エレン・ロールに加えて1982年F1チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元F1ドライバーのベルント・シュナイダーを加入させドライバー・ラインナップを充実させた。クルト・ティームはAMGからザクスピードに移籍した。 メルセデスはオフシーズンのマシンの改良が奏功し、全24レース中16レースを制した。ドライバー・タイトルはAMGのルドヴィックとザクスピードのティームの争いとなったが、メルセデスがルドヴィックにタイトルを獲らせるようチームオーダーを出したことでルドヴィックの1988年以来のタイトル獲得が決まった。メルセデスはドライバー・タイトル以外にマニュファクチャラー、チーム(AMG)の両タイトルも獲得した。 AMGの女性ドライバー、エレン・ロールが第5戦・ホッケンハイムの第1レースで女性ドライバーとして初優勝を記録した。 BMW 1992年のDTMにBMWはシュニッツァー、FINA、ビガッツィの3チームから6台のM3をエントリーさせた。BMWは体制を縮小させ、リンダ―にはワークスマシンが供給されなくなったが、アルミン・ハーネ、クリス・ニッセンにはワークスからのサポートが行われた。FINAはジョニー・チェコットがスポンサーのFINAと結成した新チームでチェコットのみの1台エントリーで参戦した。エースドライバーのチェコットを失ったシュニッツァーは1989年のDTMチャンピオンで、1990、1991年のイタリア・ツーリングカー選手権チャンピオンのロベルト・ラヴァーリアをDTMに復帰させた。 1992年仕様のM3はメルセデスに対して競争力が劣っていたため、ONSはシーズン中盤になってM3の空力モディファイを認める決定をした。この決定によって競争力の回復したM3は第7戦・ノリスリンク、第8戦・ブルノで4連勝を記録したがメルセデスの優位が覆ることはなかった。 BMW勢の最上位はFINAのジョニー・チェコットで新チーム、タイヤ銘柄の変更(1991年のヨコハマからミシュランに変更)と環境が変化した中で、2勝を挙げ、ランキング4位に入った。 オペル 1992年のDTMにオペルは、クラス1仕様のカリブラの開発のためワークスチームを参加させず、エッゲンバーガー、イルムシャー、シューベルの各チームに対して技術、資金のサポートを行った。
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各ワークスの動向
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「1993年のドイツツーリングカー選手権」の記事における「各ワークスの動向」の解説
メルセデス・ベンツ 1993年のDTMにメルセデスはAMGから4台、ザクスピードから2台のクラス1仕様の190Eをエントリーさせた。またザクスピードがメルセデス・ジュニアチームの実務を担当し、1992年までのDTM仕様の190E2.5-16エボリューションIIを2台走らせた。メルセデスはクラス1仕様のCクラスが間に合わず、前年まで使用していた190E2.5-16エボリューションIIをクラス1仕様に仕立て直した190E/C1で1993年シーズンを戦うことになった。クラス1仕様、V6エンジン搭載の155 V6 TIに対して、直4エンジンのままの190E/C1で戦うメルセデス勢は劣勢を強いられた。ドライバー達のアルファロメオ勢へのラフなドライビングも目立ち、メルセデスのマネージャーのノルベルト・ハウグは第6戦ノリスリンクでの記者会見でアルファロメオに対して謝罪した。メルセデスはシーズン通算で8勝を挙げたもののドライバー、メイクスの両タイトルを1年で失った。 アルファロメオ 1993年のDTMにアルファロメオはアルファコルセ、シューベル・エンジニアリングの2チームから4台の155 V6 TIをエントリーさせた。クラス1仕様として開発、製作されたV6エンジン搭載の155 V6 TIは、直4エンジンのままのメルセデス190E/C1に対して競争力で優位に立ち、参戦初年度にしてドライバー、メイクスの両タイトルの獲得に成功した。ニコラ・ラリーニは、開幕戦のゾルダー、第5戦ニュルブルクリンク、第6戦ノリスリンクでの連勝を含む、10勝を挙げてドライバー・タイトルを獲得した。 オペル クラス1仕様のカリブラの開発のために1992年のDTMを欠場していたオペルが最終戦・ホッケンハイムで復帰した。ヨースト・レーシングがチーム運営を担当した。 BMW 1993年のDTMにBMWは新型のM3のクラス1仕様で参戦する計画を立てていた。しかし、ONS(ナショナルモータースポーツ協会)との間でホモロゲーションに関して意見の相違があり、1992年シーズン終了後DTMからの撤退を決定し、1993年のDTMにワークスチーム/マシンは出場しなかった。 第6戦・ノリスリンクからリンダ―がE36・M3のクラス1カーをアルミン・ハーネのドライブでエントリーさせるようになった。リンダ―によるE36・M3の活動は、ワークスの先行開発の一環と推測されていた。しかし、エンジンは直4エンジンのままで競争力は十分なものとは言えなかった。
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各ワークスの動向
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「1990年のドイツツーリングカー選手権」の記事における「各ワークスの動向」の解説
1988年のDTMでドライバー・タイトルを獲得するなど有力コンデンターとして活躍してきたフォードは、ターボエンジンに対するハンディキャップの重さを嫌い1989年限りでDTMから撤退した。代わってアウディがDTMへの参戦を開始した。 BMW 1990年のDTMにBMWは排気量を2.5Lに拡大し、フロントとリヤに調整可能なスポイラーを装備したM3スポーツエボリューションを用意し、シュニッツァー、ビガッツィ、ザクスピード、リンダ―の4チームから計10台のマシンをエントリーさせた。タイヤはシュニッツァー、ビガッツィがヨコハマ、リンダ―はピレリを使用する。 シュニッツァーはジョニー・チェコットと1989年に未勝利ながらランキング3位に入ったファビアン・ジロワの2名をエントリーさせたが2人のドライバーは対照的なシーズンを送った。チェコットが3勝を挙げ最終戦までタイトル争いをしたのに対し、ジロワはシーズンランキング9位に沈み、1990年シーズン限りでシュニッツァーを離れることになった。 ビガッツィは1990年からBMW陣営に加わったイタリアのチームで、ドライバーはザクスピードから移籍のスティーブ・ソーパー、元F1ドライバーのヨアヒム・ヴィンケルホック、ジャック・ラフィットと実力あるドライバー3人を起用し、ソーパーが2勝、ヴィンケルホック、ラフィットが1勝を記録した。 ザクスピードの女性ドライバー、アネット・ミュービッセンは活躍のないままシーズンを終え、リンダ―のクリス・ニッセンはチームとの関係を悪化させ第8戦・ノリスリンク終了後チームを離れた。 1989年のチャンピオン、ロベルト・ラヴァーリアはイタリアツーリングカー選手権とWSPCに活躍の場を移し、スポットで参戦した。 シュニッツァーは5勝を挙げチームタイトルを獲得した。BMWはビガッツィの4勝を含めメーカー別で最多の9勝を挙げた。 メルセデス・ベンツ 1990年のDTMにメルセデス・ベンツは190E2.5-16エボリューションIをAMG、フランスのスノーベック、MS(マス・ショーンズ)の3チームから8台送り込んだ。タイヤはAMGがダンロップ、スノーベック、MSがピレリを使用した。 AMGはメルセデス・ワークスとして活動し、マシン開発もAMGが行いスノーベック、MSにマシンを供給している。第7戦・ニュルブルクリンクからAMGのみ190E2.5-16エボリューションIIにマシンを変更した。予選でルドヴィック、ティームが1,2位を占める速さを見せたが、その後熟成が進まずエボリューションIIはシーズン1勝を記録するにとどまった。 AMGの4名のドライバーの内フリッツ・クロイツポインターと トーマス・ヴィンケルホックは若手ドライバーの育成目的、Jrチームとして起用されクロイツポインターは抜擢に応え最優秀新人のタイトルを獲得したが、ヴィンケルホックは不振でシーズン前半のみでチームから放出された。 アウディ 1987年限りでWRCから撤退したアウディは、1988年から4WDマシンでアメリカ・Trans-AMシリーズに進出し1年目にしてドライバー・タイトルを獲得。1989年にはIMSA-GTOでタイトル争いをするなど活躍した。1990年、アウディは4WDマシン、アウディ・V8クワトロでDTMに挑戦することになった。 V8クワトロは4WDのためハンディキャップとして最低重量1220kgと、最低重量1040kgのBMW、メルセデスに対して180kgも重い車重を課せられ、第9戦・ディープホルツからは1300kgにまで最低重量を引き上げられた。タイヤはダンロップを使用した。 アウディは1990年のDTMにSMS(シュミット・モトーアシュポルト・テクニーク)から、ハンス=ヨアヒム・スタックの1台のみエントリーさせた。スタックはBMW、メルセデスに比べるとはるかに脆弱な体制のなか健闘し、シーズン前半で4勝を挙げた。最低重量が引き上げられたシーズン後半、成績が低迷したがヴァルター・ロール、フランク・イエリンスキーのサポートを受けた最終戦ホッケンハイムで連勝し、アウディは逆転で参戦1年目にしてドライバー・タイトルの獲得に成功した。 オペル オペルは1990年のDTMにワークスのイルムシャーからニューマシン、オメガ3000/24Vを2台、シューベル・エンジニアリングからカデットGSi-16Vを1台参戦させた。しかしオメガは開幕戦の予選でエンジントラブルを起こして一時撤退。第4戦・アブスから復帰したものの、カデットとともに成績は低迷した。 その他 プライベート・チームがフォード・マスタングを、スイスのディーラー・チームがトヨタ・スープラを走らせたが目立った成績を残すことはなかった。
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各ワークスの動向
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「1991年のドイツツーリングカー選手権」の記事における「各ワークスの動向」の解説
1990年から引き続き、アウディ、BMW,メルセデス・ベンツ、オペルの4ワークスが1991年のDTMに参戦した。新たなタイヤメーカーとしてブリヂストン、ミシュランが参戦し、ダンロップ、ヨコハマ、ピレリも参戦を継続し5メーカーによるタイヤ開発競争が行われた。 アウディ 1991年のDTMにアウディはSMS(シュミット・モトーアシュポルト・テクニーク)、AZR(アウディ・ツェントルム)の2チームから4台のクワトロをエントリーさせた。1991年仕様のクワトロはエンジンの出力向上、フロント、リヤにスポイラーを装備したエボリューションモデルでSMS、AZRともダンロップタイヤを装備し、最低重量は1290kgとされた。シーズン序盤は最低重量980kgのBMW、メルセデス・ベンツに対して苦戦を強いられたが、第5戦・ヴンシュトルフから最低重量が1250kgに軽減され競争力を取り戻した。 タイトル争いではフランク・ビエラ、ハンス=ヨアヒム・スタックが4勝をずつを挙げ、ビエラがドライバー・タイトルを獲得、スタックも3位に入る活躍を見せた。 BMW 1991年のDTMにBMWはシュニッツァー、ビガッツィ、リンダ―の3チームから8台のワークスマシンをエントリーさせた。前年までBMW陣営に属していたザクスピードはメルセデス陣営に移籍した。1991年仕様のM3はABSが装備された。 タイトル争いではシュニッツァーのジョニー・チェコット、ビガッツィのスティーブ・ソーパーが3勝ずつを挙げ、ドライバー・ランキングでそれぞれ4位、5位に入り、チーム・タイトルではシュニッツァーが2位に入った。 アウディ、メルセデスと違い、BMW M3は多くのプライベートチームが使用している。1991年シーズン、M3を使用するプライベートチームの中で最高の成績を残したのが、プライベーターながら元F1ドライバーのクリスチャン・ダナー、1990年ドイツF3選手権ランキング2位のオットー・レンジングを擁するMMディーベルスでチーム・ランキングで9位に入った。 メルセデス・ベンツ メルセデスは1991年、1990年とは体制を変更した。1990年まではAMGをワークスとしていたが、1991年からAMG、MS、スノーベック、BMW陣営から移籍したザクスピードの4チームを同列で扱うようになった。これによってメルセデス陣営内で相対的に競争力の落ちることになったAMGは、タイヤをブリヂストンに変更し独占供給の契約を取り付けた。またスノーベックはピレリからミシュランに、MSもピレリからダンロップにタイヤを変更した。2年目を迎えた190E2.5-16エボリューションIIにはABSが装備され、戦闘力がさらに向上した。 1991年シーズン、メルセデス陣営で最高の成績を残したのはクラウス・ルドヴィックで4勝を挙げドライバー・ランキングで2位に入った。スノーベックのベテラン、45歳のアラン・クディーニは未勝利ながらランキング6位に入る活躍を見せた。AMGの女性ドライバー、エレン・ロールは2ポイントを獲得した。1990年、BMW/シュニッツァーで不振に陥ったファビアン・ジロワはザクスピード/メルセデスで再起を図ったが、不振から脱せずシーズン途中でチームから放出された。同じく不振のMSのフランク・シュミックラーもシーズン途中でチームから放出されたが、オペルにシートを得た。 4名のドライバーを擁するAMGはチーム・タイトルを獲得。メルセデスもマニュファクチャラー・タイトル(Bitトロフィー)を獲得した。 オペル オペルは、5台のオメガ3000エボリューション500をエッゲンバーガー、イルムシャー、シューベルからエントリーさせたが、1990年から続く不振から脱することは出来なかった。
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