他社での活動
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「他社での活動」の解説
『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出すという方針をとったため、ヒッチコックも1944年まで他社に貸し出されて映画を撮ることになり、セルズニックの下にいる時よりも映画作りの自由度が高まった。ヒッチコックの次の作品『海外特派員』は独立系映画プロデューサーのウォルター・ウェンジャーに貸し出されて作った作品で、1940年3月に脚本を作成し、同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品で最高額の150万ドルとなった。この作品は第二次世界大戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者(ジョエル・マクリー)が、ナチスのスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語である。大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品であからさまにイギリスの参戦を支持し、結末にはアメリカの孤立主義の撤回を求める戦争プロパガンダの要素を取り入れた。同年8月にユナイテッド・アーティスツの配給で公開されると成功を収めたが、この頃にヒッチコックはイギリスのメディアから、祖国の戦争努力を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事をする逃亡者であると非難され、心を傷つけられた。 1940年8月、ヒッチコックはカリフォルニア州スコッツバレー近くにある200エーカーの土地を持つ別荘「コーンウォール牧場」を購入した。その翌月からはRKOに貸し出されて2本の作品を監督したが、その1本目の『スミス夫妻』は友人のキャロル・ロンバードに頼まれて監督を引き受けた作品である。これは幸せだが喧嘩の絶えない夫婦(ロンバードとロバート・モンゴメリー)を描くスクリューボール・コメディで、アメリカ時代の唯一のコメディ映画となったが、翌1941年1月に公開されると興行的成功を収めた。2本目の『断崖』はフランシス・アイルズの小説が原作で、夫(ケーリー・グラント)を殺人者と疑い彼に殺されると思い込むヒロイン(フォンテイン)が主人公の心理スリラーである。ヒッチコックははじめ、夫が妻を殺害するという結末を考えていたが、グラントのスターのイメージを損なうとしてハッピーエンドに変更させられた。同年11月に公開されると批評家や観客から好意的な評価を受け、その年のRKOの最も収益性の高い作品となった。第14回アカデミー賞では作品賞など3部門でノミネートされ、フォンテインが主演女優賞を受賞した。 『断崖』の撮影中、ヒッチコックは数人の脚本家と自身の着想による『逃走迷路』の脚本を執筆した。この作品は破壊工作員の疑いをかけられた青年(ロバート・カミングス)が主人公の物語である。セルズニックはこの脚本をユニバーサル・ピクチャーズと契約していたプロデューサーに売り、ヒッチコックは同社に貸し出されて監督することになったが、その立場上キャスティングに口出しできず、自分が望まない俳優を会社から押し付けられた。撮影は1941年12月から行われ、翌1942年春に完成して公開されると商業的成功を収めた。この時期にヒッチコックは、それまでの家の持ち主だったロンバードが飛行機の墜落事故で死亡したために新居を探すことになり、ベルエアのベラジオ・ロード10957番地にある広大な敷地を持つ家に引っ越し、ここを亡くなるまでの住みかとした。 その次にヒッチコックは、セルズニックの女性文芸部長の夫が思いついたストーリーを基にした『疑惑の影』(1943年1月公開)を、ユニバーサルでの2作目として監督した。この作品は最愛の叔父(ジョゼフ・コットン)を連続殺人犯と疑う若い娘(テレサ・ライト)が主人公のスリラーで、ほとんどのシーンはスタジオ撮影ではなく、物語の舞台であるカリフォルニア州サンタローザでロケ撮影をした。その撮影中の1942年9月26日、ヒッチコックの母親のエマが79歳で病死した。ヒッチコックは母親について公に話すことはなかったが、関係者は彼が母親を賞賛していたと述べている。その4か月後には兄のウィリアムがパラアルデヒドの過剰摂取のため52歳で亡くなったが、兄弟ははあまり親密な関係ではなかった。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に肥満体型だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだ。 1942年11月、ヒッチコックはセルズニックの手配で20世紀フォックスに貸し出され、同社で2本の作品を撮影することになった。ヒッチコックはUボートに撃沈された輸送船の乗客とナチスの将校をめぐって救命艇の中だけで物語が展開する作品を構想し、アーネスト・ヘミングウェイに脚本を依頼したが断られ、次にジョン・スタインベックに依頼したが2人の共同作業はうまくいかず、最終的にジョー・スワーリング(英語版)と組んで執筆した。こうして脚本が作られた『救命艇』は、1943年8月から11月の間に撮影が行われた。セットはスタジオの巨大タンクに浮かぶ救命艇の1つだけで、カメラを常にその中に据えて撮影するという実験的手法を試みた。1944年に公開されるとさまざまな評価を受け、一部の批評家はナチスを賞賛していると批判した。第17回アカデミー賞では監督賞など3部門でノミネートされた。 戦争のためにみんな苦労しているのに、わたしだけが何もしないわけにはいかない…兵役につくには年をとりすぎていたし、ふとりすぎていた。戦争にもいかず、戦争のためになんにもしないでいたら、きっとわたしはそのことでやましい気持ちを抱きつづけることになるだろうと思った。 アルフレッド・ヒッチコック、イギリスで戦争プロパガンダ映画を作った理由について 1943年12月、ヒッチコックは映画製作で祖国の戦争努力に貢献する必要性を感じてイギリスに帰国し、友人で情報省(英語版)映画部長のシドニー・バーンスタイン(英語版)の依頼で、1944年1月と2月にフランスのレジスタンス運動を描く短編プロパガンダ映画『闇の逃避行(英語版)』と『マダガスカルの冒険(英語版)』の2本を撮影した。いずれも亡命したフランス人俳優の劇団モリエール・プレイヤーズが出演したフランス語作品であるが、プロパガンダに役立たないとしてフランス国内で正式に公開されることはなかった。同年6月と7月には、バースタインが製作したナチス・ドイツの強制収容所に関するドキュメンタリー『German Concentration Camps Factual Survey』にトリートメント・アドバイザーとして参加した。この作品は1945年の製作中に棚上げされ、1985年まで未発表となっていた。また、1944年10月にはセルズニックのスタジオで、アメリカの戦時国債(英語版)の販売を促進するための2分足らずのプロパガンダ映画『The Fighting Generation』を撮影した。
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