他の国での事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 11:44 UTC 版)
「ガイ・フォークス・ナイト」の記事における「他の国での事例」の解説
火薬反逆事件の日は、入植者によって世界中の植民地、オーストラリア、ニュージーランド、カナダといったイギリス連邦やカリブ諸国などに輸出された。セントビンセント・グレナディーン諸島、セントクリストファー・ネイビスでは現在もこの日にちなんだイベントが開かれているが、1990年代に花火の打ち上げが禁止されたアンティグア・バーブーダでは下火になっている。オーストラリアにおいては、1788年に流刑植民地(英語版)として始まったシドニーにおいて、1805年にガイ・フォークスの人形を掲げたパレードと焼き討ちが少なくとも1回は行われ、パース植民地では設立から4年後の1833年に「火薬反逆事件の日」が祝日として制定された。1970年代に入ると、オーストラリアではガイ・フォークス・ナイトは見られなくなっていった。ニュージーランド、カナダ、南アフリカでは、ある程度残っている。南アフリカのケープタウンにあるケープ・フラッツ(英語版)では、ガイ・フォークスの日はフーリガンの若者たちのイベントと関連付けて見なされている。 北アメリカにおいては初期植民地時代に記念式典はほぼ開かれていなかった。ただ、1662年11月5日にボストンで焚き火をしていた2人の少年が逮捕されたという出来事があり、歴史家のジェームズ・シャープ(James Sharpe)は「5日を祝うアンダーグラウンドな伝統はあった」と指摘している。一部では「ポープ・デー(英語版)(教皇の日、Pope Day)」と呼ばれ、主に植民地時代のニューイングランドで、南はチャールストンまで、祝われていた。1630年にジョン・ウィンスロップ率いる清教徒たちの入植で設立されたマサチューセッツ湾植民地ではジェームズ2世が即位した同年の1685年に早くも祝典が行われた。50年後のボストンでは、地元牧師が「大勢の人々がドーチェスター・ネックに行き、夜になると大きなかがり火を焚き、多くの花火を打ち上げた」と記しているが、この日は「カヌーで帰宅した4人の若者が全員溺死した」という事故も発生した。そのさらに10年後には騒々しい祭りは上流階級を大いに悩ませ、「3人以上の暴動じみた騒々しい集まりあるいは無秩序な集会、全員あるいは何名かが棒や棍棒などの武器で武装すること、仮面やペイント、顔への色塗り、あるいはその他の何らかの仮装、あらゆる人形や式典の行使、こうした行為を、大通りや通路といったボストンのあらゆる場所において」禁じる特別な暴動法が制定された。しかし、貧弱なボストン当局では、この法を執行する力はなかった。1740年代になるとギャングによる暴力が多発し、一方でボストンの住民たちが教皇の人形を燃やすことの栄誉を巡って争うようになった。しかし、1760年代半ばにはこれら暴動は沈静化し、アメリカ独立戦争に近づくにつれ、「ポープ・デー」に見られた階級間対立は、反英感情に変わっていった。作家のアルフレッド・ヤング(英語版)の見解によれば、「ポープ・デー」は、1764年から65年にかけての印紙法への抵抗のための「土台、象徴、リーダーシップ」を提供し、それまでのギャング抗争を放棄させてイギリスへの対抗心をまとめたという。 1774年にカナダのケベック州において、フランス系カナダ人に対するカトリック信仰を保証したケベック法が可決されたことで、一部のアメリカ人から、「ローマカトリックの指針とフランスの法律」をイギリスは導入するのではないか、という不満を引き起こした。このような懸念は、ヨーロッパの教会がアメリカ独立に反対することと合わせて「ポープ・デー」を復活させる恐れをもたらした。ただ、この動きをジョージ・ワシントンはあまり感心せず、1775年には部下が「ポープ・デー」の集まりに参加することを禁じ、以下の声明を出した。 最高司令官として、教皇の人形を燃やすという馬鹿げた子供じみた習慣を遵守させる計画を聞き、この時期にそのような行為が不適切だと気づかない、非常識な将校や兵士がこの軍隊にいることに驚きを隠せない。我々は、同じ目的を抱く同志と考えるべきカナダの人々との友好や同盟を求めており、また実際にそれを得られている時に、だ。アメリカの一般的な自由を守るためなのだ。このような時期、このような状況において彼らの宗教を侮辱することは許されることではなく、あまりにもおぞましい。遠回しに侮辱するのではなく、感謝を表明することが我々のすべきことなのだ。最近、カナダが共通の敵に対しての幸福な成功にとても感謝したように。 — The Writings of George Washington from the Original Manuscript Sources, 1745–1799 この伝統は1817年になってもセイラムでは続き、1892年にはニューハンプシャー州ポーツマスでも行われていたことが確認できる。18世紀後半には、イギリスの2人の首相、ビュート伯爵とノース卿、アメリカの反逆者ベネディクト・アーノルド将軍などの著名人の人形も焼かれた。1880年代になっても、ニューイングランドの海岸沿いの町では、火薬陰謀事件の失敗を記念したかがり火が焚かれていた。ニューヨーク周辺では、1845年以降、11月初旬の火曜日となった選挙日の前夜に、積み上げられた樽が燃やされた。
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