人類教と晩年とは? わかりやすく解説

人類教と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:32 UTC 版)

オーギュスト・コント」の記事における「人類教と晩年」の解説

1846年くらいからのコントを「後期コントということがある。晩年期入ったコント劇的な転機到来したのである求職のために活動していたコント頻繁に各界有力者訪ねていた。陸軍大臣スールト元帥面会したのも、エコール・ポリテクニックの卒業生弟子のマキシミリアン・マリ(英語版)の父ジョゼフ・シモン・マリ将軍取り次ぎ依頼してのことであったコント空しい結果終わった求職活動の中で一人若く美しい女性に出会う。それが、マキシミリアンの姉クロティルド・ド・ヴォー(英語版)である。 出会った時、コント46歳クロティルド29歳であったコント長年苦労結果この時期にはすでに老けこんでおり、背は低く脚は短く腹が出た、頭は禿げ始めた落ちぶれた老人という外見であった一方クロティルド肖像画見られるように若く美しい女性で、軍人家庭の娘で大変教養があって文学精通した才媛であった。彼女は収税官のアメデ・ド・ヴォーと結婚していたが、夫がギャンブル借金重ねてベルギーへと蒸発したため、弟夫婦近所一人暮らしをしていた。当時クロティルドはアルマン・マラスト(フランス語版)が発行していた『ル・ナショナル』(英語版)に不幸な女性悲運生涯描いた小説リュシー』を発表している。 コントはそんな魅力あふれる一人女性クロティルド出会い一目惚れをしてすっかり魅了されてしまうのである。 しかし、現実には彼女は夫に捨てられて貧しい生活余儀なくされていたばかりか、このときにすでに結核思われる不治の病魔に侵されていた。コントは彼女に90通ちかくの情熱的な恋文送り次第に彼女も心を開いていったのか、短い返信多かったもののコントの手紙に返事続けて最終的に181通の往復書簡交わしていく。コントクロティルド求愛して二人はやがて親密な関係となっていき、大恋愛の中で結婚約束するが、死を前にしたクロティルド拒絶されたため、この約束結局果たされなかった。1847年4月5日コント看取る中でクロティルドは若い生涯終えてしまう。彼女はペール・ラシェーズ墓地マリ家の墓所埋葬された。 最愛女性亡くしたのち、コント思想と行動変化生じていった。 コント葬儀の後もクロティルド失った悲しみ引きずりクロティルド聖女として毎週水曜日墓所詣で日々聖女礼拝をおこなう祈りの人となっていった。祈り通じてコント心中愛す科学愛す女性人類愛宗教的に融合していくようになるこれまで秩序進歩」をモットーにしていたコントは、「愛を原理とし、秩序基礎とし、進歩目的とする」というように、実証主義こそが人類愛精神体現したものだと説くようになった最終的には「人類教」という宗教提唱する。やがて、コント内面の中ではクロティルドへの愛、母ロザリ・ポワイエへの愛、メイドのソフィ・ブリオへの愛の結果三人天使になっていく。 『実証政治学体系人類教創始するための社会学概論』(全4巻フランス語: Systéme de politique positive, ou de Sociologie instituant la Religion de l'Humanité,1851-54)がこの時期代表作である。本書第一巻一般的見解提示第二巻社会静学第二巻社会動学取りあつかい最後第四巻特徴的な思想加えようとした。科学的精神のみでは人間的な魂に欠けており社会秩序安定図れないと考えていた。かつてジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』において「市民宗教」を重視したように、コント社会統合を可能とする宗教精神再興人類教」の創設論じたのである科学産業による近代化結果社会階級制度によって深く分断される資本主義経済従属していた。産業革命後成立した資本主義経済生産力爆発的向上をもたらしたが、一方でブルジョア階級プロレタリアート階級分裂生じさせ、貧困階級的固定化招いた。これが深刻な食糧危機社会不安生み出し、ついに1848年のフランス革命勃発全欧州が1848年革命という動乱巻き込まれていく。大統領ルイ・ナポレオン1851年12月2日のクーデター起こして議会反対派一掃し皇帝即して第二帝政開始したこうした歴史動乱天才たちに危機感じさせた。 若き天才カール・マルクス1848年段階30歳)は共産主義による労働者解放革命による社会矛盾克服による人間回復という道筋開いていった。対してコント場合は師であるサン=シモンと同様、突破口社会主義階級闘争ではなく近代科学頂点位置する社会学人類愛受け皿となる宗教求めていった。サン=シモンが新キリスト教提唱したように、人類教提唱したのである。なお、人類教一時期世界各地信者をえた。ブラジルなど一部地域では今日人類教信者がいる。客観的手法としての実証科学から主観的方法としての宗教精神への回帰、これが「後期コント」が提示した解答であった詳細は「1848年のフランス革命」および「人類教」を参照

※この「人類教と晩年」の解説は、「オーギュスト・コント」の解説の一部です。
「人類教と晩年」を含む「オーギュスト・コント」の記事については、「オーギュスト・コント」の概要を参照ください。

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