人類教と晩年
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「オーギュスト・コント」の記事における「人類教と晩年」の解説
1846年くらいからのコントを「後期コント」ということがある。晩年期に入ったコントに劇的な転機が到来したのである。 求職のために活動していたコントは頻繁に各界の有力者を訪ねていた。陸軍大臣スールト元帥に面会したのも、エコール・ポリテクニックの卒業生で弟子のマキシミリアン・マリ(英語版)の父ジョゼフ・シモン・マリ将軍に取り次ぎを依頼してのことであった。コントは空しい結果に終わった求職活動の中で一人の若く美しい女性に出会う。それが、マキシミリアンの姉クロティルド・ド・ヴォー(英語版)である。 出会った時、コント46歳、クロティルド29歳であった。 コントは長年の苦労の結果この時期にはすでに老けこんでおり、背は低く脚は短く腹が出た、頭は禿げ始めた落ちぶれた老人という外見であった。一方、クロティルドは肖像画に見られるように若く美しい女性で、軍人家庭の娘で大変教養があって文学に精通した才媛であった。彼女は収税官のアメデ・ド・ヴォーと結婚していたが、夫がギャンブルで借金を重ねてベルギーへと蒸発したため、弟夫婦の近所で一人暮らしをしていた。当時、クロティルドはアルマン・マラスト(フランス語版)が発行していた『ル・ナショナル』(英語版)に不幸な女性の悲運の生涯を描いた小説『リュシー』を発表している。 コントはそんな魅力あふれる一人の女性クロティルドに出会い、一目惚れをしてすっかり魅了されてしまうのである。 しかし、現実には彼女は夫に捨てられて貧しい生活を余儀なくされていたばかりか、このときにすでに結核と思われる不治の病魔に侵されていた。コントは彼女に90通ちかくの情熱的な恋文を送り、次第に彼女も心を開いていったのか、短い返信が多かったもののコントの手紙に返事を続けて、最終的に181通の往復書簡を交わしていく。コントはクロティルドに求愛して二人はやがて親密な関係となっていき、大恋愛の中で結婚を約束するが、死を前にしたクロティルドに拒絶されたため、この約束は結局果たされなかった。1847年4月5日、コントが看取る中でクロティルドは若い生涯を終えてしまう。彼女はペール・ラシェーズ墓地のマリ家の墓所に埋葬された。 最愛の女性を亡くしたのち、コントの思想と行動に変化が生じていった。 コントは葬儀の後もクロティルドを失った悲しみを引きずり、クロティルドを聖女として毎週水曜日に墓所に詣で、日々を聖女の礼拝をおこなう祈りの人となっていった。祈りを通じて、コントの心中で愛する科学と愛する女性と人類愛が宗教的に融合していくようになる。これまで「秩序と進歩」をモットーにしていたコントは、「愛を原理とし、秩序を基礎とし、進歩を目的とする」というように、実証主義こそが人類愛の精神を体現したものだと説くようになった。最終的には「人類教」という宗教を提唱する。やがて、コントの内面の中ではクロティルドへの愛、母ロザリ・ポワイエへの愛、メイドのソフィ・ブリオへの愛の結果、三人は天使になっていく。 『実証政治学体系-人類教を創始するための社会学概論』(全4巻,フランス語: Systéme de politique positive, ou de Sociologie instituant la Religion de l'Humanité,1851-54)がこの時期の代表作である。本書は第一巻で一般的見解を提示、第二巻で社会静学、第二巻で社会動学を取りあつかい、最後の第四巻は特徴的な思想を加えようとした。科学的精神のみでは人間的な魂に欠けており社会秩序の安定は図れないと考えていた。かつてジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』において「市民宗教」を重視したように、コントも社会の統合を可能とする宗教精神の再興「人類教」の創設を論じたのである。 科学と産業による近代化の結果、社会は階級制度によって深く分断される資本主義経済に従属していた。産業革命後に成立した資本主義経済は生産力の爆発的向上をもたらしたが、一方でブルジョア階級とプロレタリアート階級の分裂を生じさせ、貧困の階級的固定化を招いた。これが深刻な食糧危機、社会不安を生み出し、ついに1848年のフランス革命が勃発、全欧州が1848年革命という動乱に巻き込まれていく。大統領ルイ・ナポレオンが1851年12月2日のクーデターを起こして議会反対派を一掃し、皇帝に即して第二帝政を開始した。 こうした歴史の動乱は天才たちに危機を感じさせた。 若き天才カール・マルクス(1848年段階で30歳)は共産主義による労働者の解放と革命による社会矛盾の克服による人間の回復という道筋を開いていった。対して、コントの場合は師であるサン=シモンと同様、突破口を社会主義や階級闘争ではなく、近代科学の頂点に位置する社会学と人類愛の受け皿となる宗教に求めていった。サン=シモンが新キリスト教を提唱したように、人類教を提唱したのである。なお、人類教は一時期世界の各地で信者をえた。ブラジルなど一部の地域では今日も人類教の信者がいる。客観的手法としての実証科学から主観的方法としての宗教精神への回帰、これが「後期コント」が提示した解答であった。 詳細は「1848年のフランス革命」および「人類教」を参照
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