五代・宋
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「水墨画」および「禅#中国の禅の歴史」も参照 先に述べた「会昌の廃仏」と五代十国時代の顕徳年間に行われた仏教弾圧、また唐滅亡後の戦乱によってこの時代は仏教彫刻の衰退期と見做されることが多いが、実際には各地で名品と呼びうる作品が多く制作された。特に華南は戦争による混乱も少なく、後蜀・南唐・呉越・閩のように仏教を保護する国も多かった。 宋の時代に入ると、初代皇帝趙匡胤が成都で『大蔵経』を印刷させたように、国家から仏教に対する支援が盛んになった。諸宗のなかでも教勢の発展が著しかったのが禅宗と浄土教であった。また、この時代には、文人である士大夫層が武人に変わって政治の中心を占めていった。彼らは儒教を栄達のために修めていたものの、哲学・信仰の対象としては仏教、こと禅宗に帰依するものが多かった。このような状況から、墨跡・禅画・頂相といった、仏教美術の新たな流れが生まれていく。 中国禅を巡る芸術は、その担い手の多様性から、制作姿勢や美術の傾向にも異なった様式を生み出した。禅僧たちが修行や儀式のために頂相を制作した一方、在家・居士であった士大夫文人たちは(それが信仰心によるものであったにせよ)余技として禅故事を主題とした水墨画を描くことが多かった。さらに、南宋の梁楷のように、院体画家(宮廷画家)が仏画を描くこともあった。 禅僧たちの描いた禅画は、その教義ゆえに信仰の対象というよりも内面的な探求の手助けとするために描かれた。したがって、悟りの助けとなるならば画題に囚われずに描くようになり,絵の主題も、それまでの仏像や仏画が扱ったもの(菩薩や如来など)に留まらず、自然物や図形、神仙(道教)など多岐に渡るようになった。また、絵画表現においても新潮流が起こった。五代の道釈画家・石恪は、当時一般的であった細密な画風ではなく粗いタッチで仏画を描いたが、この画風は宋代の禅僧たちに受け継がれた。彼らは、モノクロームで活き活きとした筆致で悟りの衝撃を表現しようと試みた。 他方、石窟造営も盛んに行われた。北宋における造像の傾向としては、異民族との最前線であった北辺地域(現在の河北省・山西省・陝西省)で造営が盛んであった。制作された彫刻も、外敵の排除と現世・来世の安寧を祈願したものが多い。12世紀の始め、北方から侵攻してきた金によって華北を占領され、宋は靖康の変と呼ばれる屈辱的な敗北を経験する。南遷した宋王朝は南宋と呼ばれ、国土の半分以上を失ったものの、経済基盤は盤石であったことから、仏教石窟での造像は引き続き行われた。南宋時代には、大足の石窟群に数多くの仏像が遺された。人体表現においては北宋時代のものを概ね踏襲しながらも、顔つきはやや面長で肉付きが増し、体型も流麗さを残しながらもボリュームを湛えている点で以前のものと異なっている。 12世紀、南宋の朱熹が主動した宋明理学の台頭によって、禅僧の画家は多くの批判に晒された。くわえて、後代の中国では文人画が尊ばれ、仏教絵画や院体画は相対的に低く見られるようになる。結果として、禅画の作品の一部は「水墨画」として鎌倉時代の日本に渡ったが、新たな文人画の流れが登場する南宋以降の中国では次第に衰退していく。 莫高窟第17窟(蔵経洞) 布施者 983年(宋太平興国八年) ギメ東洋美術館蔵 莫高窟内部の壁画には、制作を依頼した人物の関係者が描かれる例が見られる。 無準師範像。南宋、嘉熙2年(1238年) 京都東福寺蔵 院体画の影響を受けている。禅僧の画家は、「簡筆画」と呼ばれるシンプルかつダイナミックな描き方を人物画に取り込む過程で重要な役割を果たした。 『出山釈迦図』 南宋時代(13世紀) 梁楷筆 悟りを得られず山を出る釈迦が、精細で写実的な筆致で描かれている。 『六祖截竹図』 梁楷筆 南宗の祖、慧能を描いた作品。左の『出山釈迦図』と異なり、「減筆体」というシンプルかつダイナミックな筆法で描かれている。 『観音猿鶴図』 牧谿筆 京都大徳寺蔵 南宋(13世紀) 牧谿は無準師範の弟子であった。 千手觀音像 宝頂山摩崖石刻(中国語版)(重慶市、大足石窟の一つ) 宝頂山の石窟は南宋の密教僧、趙智鳳によって拓かれ、七十年ほどかけて完成した。漢伝密教の美術であるとともに、禅宗・儒教の思想も表現されている。
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