主な逸話
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即位の直後である355年8月、中書監の胡文・中書令の王魚が「近頃は彗星が頻繁に訪れ、火星が不吉な方位に表れております。占ってみましたところ、3年を経ずに国に大喪があり、大臣が殺戮されると出ました。願わくば、陛下は周の文王のように徳を修め、群臣を慈しみ、天下の安寧を成して頂きますよう」と上表すると、苻生は「皇后と朕が天下に臨めば大喪の変を塞ぐに十分である。毛太傅(毛貴)・梁車騎(梁楞)・梁僕射(梁安)は輔政の遺詔を受けているから、大臣とは彼らの事であろうな」と述べた。同年9月、梁皇后・毛貴・梁楞・梁安を処刑した。 丞相の雷弱児は苻生に対してしばしば厳しい諫言を行っており、また趙韶・董栄らが政治を乱している事を朝政において公言していた。355年12月、趙韶らはこれに恨みを抱き、苻生に雷弱児の事を讒言した。これにより、雷弱児は9人の子と27人の孫とと共に誅殺された。雷弱児が誅殺されたことにより諸々の羌族は離心を抱き(雷弱児はもともと羌族酋長であった)、離反する者が相次ぐようになったという。 司空の王堕もまた朝政を腐敗させていた尚書の董栄・侍中の強国らを敵視しており、朝見の際には一言も話さなかった。そのため356年1月に天変が発生すると、董栄・強国らは王堕の讒言を行い、これにより苻生は王堕を捕らえて誅殺した。また王堕の外甥であった洛州刺史の杜郁も、かねてより趙韶と折り合いが悪かった事で讒言を受け、杜郁は東晋と内通したとの罪状で処刑された。 356年1月、苻生は群臣と共に太極殿において宴会を開き、右司馬の辛牢が酒監となった。宴もたけなわとなると、音楽が奏でられ、苻生自ら歌を詠み、場を楽しませた。だが、苻生は辛牢が酒を飲んでいないのを見ると「酒が進んでいない者がどうしてこの席に座っているか!」と怒り、辛牢を射殺した。群臣は震え上がり、先を争って酒を口にした。一同が疲れ切って倒れると、苻生はこれに満足した。 356年4月、長安で家屋や樹木が引き抜かれるほどの大風が発生した。宮中は騒然となり、ある者が賊が忍び込んだと称すると、宮門は5日間閉鎖された。苻生は賊を見つけたら心臓を抉り取ると布告すると、母方の叔父である左光禄大夫の強平は「天が災いを降したのです。陛下は民を愛し神を敬うべきであり、刑を緩めて徳を崇める事でこれに応じるのです。そうすれば従う事が出来るでしょう」と述べ、さらに言葉を尽くして苻生の振る舞いを厳しく諫めた。苻生はこれに激怒し、妖言をなしたとして処刑しようとすると、強平は皇太后の弟だった事から、苻黄眉・苻飛・鄧羌らは叩頭して固く諫めたが、聞き入れられなかった。強平は頭に鑿で穴を開けられ殺害された。また、苻黄眉を馮翊太守に、苻飛を扶風郡太守に、鄧羌を咸陽郡太守にそれぞれ左遷したが、その武勇を惜しんで殺害しなかった。 356年6月、苻生は諫言の数があまりにも多い事に苛立ち、下詔して「朕は皇天の命を受け、祖宗の業を継ぎ、万邦に君臨し、百姓を子の如く育てた。なんら不善はないのに、誹謗の声が天下に溢れかえっている。殺した数は千人も見たぬのに、刑虐といっている。もし峻刑極罰で当たったらば、朕の事を何というのか!」と述べた。また前年の春より国内では虎狼による獣害が多発しており、百姓はついには農業・養蚕を放棄してしまうほどであった。7月、群臣はこの災禍を払うよう上奏したが、苻生は「野獣が飢えて人を食っているが、満ち足りたら自ずと止むであろう。連年の煩いとはなりえぬ。それに、どうして天が群生(民)を子愛せず、年々に渡って罰を降そうか。百姓の犯罪が止まないので、朕が専殺して刑教を施すのを助けてくれているに過ぎない。犯罪が亡くなるのであれば、どうして天を恨んで人を咎めようか!」と述べ、取り合わなかった。 356年10月、苻生は夜に棗を多く食し、朝になると体調を崩したので、太医令の程延を呼び寄せて診断させた。程延は「陛下はどこも悪くありません。ただナツメを食べ過ぎただけです」と答えると、苻生は怒って「汝は聖人でもないのに、どうして我がナツメを食べたと思うか!」と言い、これを殺害した。357年2月、ある官吏が「金星が不吉な方位に表れており、これは必ずや反乱が起こる事の前触れです」と上奏したが、苻生は「星が井(東井)に入ったのは、単に渇きを癒したかったからだろう。どうして怪しむ事がある!」と意に介さなかった。 357年4月、苻生は巨大な魚が蒲を食べる夢を見たが、苻氏は元々の姓が蒲であった事から気分を害した。また、この時期に長安では歌謡が流行り「東海の大魚は龍と化す。男はみな王となり、女はみな公となる。洛門東の所在はいずこか問う」というものであった。東海は苻堅の封地であり、彼は龍驤将軍であり、洛門の東に邸宅があった。だが、苻生は苻堅を指しているものと気づかず、夢で見た内容と結び付け、大魚とは太師魚遵の事だと決めつけ、魚遵をその7人の子・10人の孫と共に誅殺した。また、ある時に「百里空城を望み、鬱鬱としてどうして青青たるか。瞎児(目の見えない子)は法を知らず、仰いでも天星は見えず」という歌謡が流行ると、苻生は多数の空城を破壊して、これを祓わんとした。 357年4月、金紫光禄大夫の牛夷は、自身の身の危険を感じたため荊州の豊陽川への赴任を要請したが、苻生は「卿は忠粛にして篤敬である。朕の左右に控えるべきだ。どうして外鎮とする理があろうか」と述べ、中軍将軍に任じた。その後に引見すると、苻生は「牛は大人しく落ち着きがあり、よく車子を牽く事が出来るという。素早い足は無くとも、百石を背負ってお互く事が出来るという事だな」と述べると、牛夷は「大車を服すとはいえども、未だ峻壁を経験しておりません。願わくば一度重載を試し、勲功・実績を知っていただきますよう」と述べた。苻生は笑って「どうしてそのように逸るのだ。公は荷が軽いのが嫌ではないのかね。朕はまさに魚遵の爵位を公に与えようと思っている」と言った。牛夷はこれにますます恐怖を抱き、自宅に帰ると自殺してしまった。 357年6月、太史令の康権は苻生へ「昨夜、三つの月が並び出で、孛星が太微に入り、東井に連なりました。また、先月上旬より、曇天のまま雨が降らず、今に至っております。これは下人が謀上の禍をなしていると思われます。陛下が徳を修め、これを消す事を深く願います」と述べた。苻生は怒り、妖言を為した事をもって康権を撲殺した。 将軍の強懐は桓温との戦いで戦没したが、子の強延がまだ封じられない内に苻健が亡くなった。そのために、強懐の妻である樊氏は道端で直接苻生へ上書し、強懐の忠烈を論じ、子を封じるよう請うた。苻生は無礼な振る舞いに怒りを覚え、樊氏をその場で射殺した。 苻生は阿房宮に向かう途中、ある兄妹と出会い、非礼(性行為)を為すよう迫った。彼らが拒絶すると、苻生は怒って殺害した。 ある時、群臣と咸陽の故城で酒宴を催したが、これに遅れてきた者は全て斬り殺したという。 苻生は左右の側近へ「我が天下に臨んでいることについて、汝は外からどのようにきいているかね」と問うと、側近は「聖明なる陛下が世を治めるおかげで、賞罰は明確となり、天下は太平を謳歌しております」と言うと、苻生は激怒して「汝は我に媚びを売るか!」と言い、斬り殺した。別の日、同じ質問をしたので、ある側近は「陛下の刑罰にはやや過ぎたるところがあります」と諫言すると、苻生はまた激怒して「汝が我を謗るのか!」と言い、同じように斬り殺した。
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