主な逸話とは? わかりやすく解説

主な逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:35 UTC 版)

苻生」の記事における「主な逸話」の解説

即位直後である355年8月中書監の胡文・中書令の王が「近頃彗星頻繁に訪れ火星不吉な方位表れております占ってみましたところ、3年経ずに国に大喪があり、大臣殺戮されると出ました願わくば陛下は周の文王のように徳を修め群臣慈しみ天下安寧成して頂きますよう」と上表すると、苻生は「皇后と朕が天下臨め大喪の変を塞ぐに十分である。毛太傅(毛貴)・車騎楞)・僕射安)は輔政の遺詔受けているから大臣とは彼らの事であろうな」と述べた同年9月梁皇后・毛貴・楞・安を処刑した丞相雷弱児苻生に対してしばしば厳し諫言行っており、また趙韶・董栄らが政治乱している事を朝政において公言していた。355年12月、趙韶らはこれに恨み抱き苻生雷弱児の事を讒言した。これにより、雷弱児は9人の子27人の孫とと共に誅殺された。雷弱児誅殺されたことにより諸々羌族離心抱き雷弱児はもともと羌族酋長であった)、離反する者が相次ぐようになったという。 司空王堕もまた朝政腐敗させていた尚書の董栄・侍中強国らを敵視しており、朝見の際には一言も話さなかった。そのため356年1月天変発生すると、董栄・強国らは王堕讒言行い、これにより苻生王堕捕らえて誅殺した。また王堕外甥であった洛州刺史郁も、かねてより趙韶と折り合い悪かった事で讒言を受け、郁は東晋内通したとの罪状処刑された。 356年1月苻生群臣と共に太極殿において宴会開き、右司馬の辛牢が酒監となった宴もたけなわとなると音楽奏でられ、苻生自ら歌を詠み、場を楽しませた。だが、苻生は辛牢が酒を飲んでいないのを見ると「酒が進んでいない者がどうしてこの席に座っているか!」と怒り、辛牢を射殺した群臣震え上がり先を争って酒を口にした。一同疲れ切って倒れると、苻生はこれに満足した356年4月長安家屋樹木引き抜かれるほどの大風発生した宮中騒然となり、ある者が賊が忍び込んだ称すると、宮門5日閉鎖された。苻生は賊を見つけた心臓抉り取る布告すると、母方叔父である左光禄大夫強平は「天が災い降したのです。陛下は民を愛し神を敬うべきであり、刑を緩めて徳を崇める事でこれに応じるのです。そうすれば従う事が出来でしょう」と述べ、さらに言葉を尽くして苻生振る舞い厳しく諫めた苻生はこれに激怒し妖言をなしたとして処刑しようとすると、強平皇太后の弟だった事から、苻黄眉苻飛鄧羌らは叩頭し固く諫めたが、聞き入れられなかった。強平は頭に鑿で穴を開けられ殺害された。また、苻黄眉馮翊太守に、苻飛扶風郡太守に、鄧羌咸陽郡太守それぞれ左遷したが、その武勇惜しんで殺害しなかった。 356年6月苻生諫言の数があまりにも多い事に苛立ち、下詔して「朕は皇天の命を受け、祖宗の業を継ぎ万邦君臨し百姓を子の如く育てた。なんら不善はないのに、誹謗の声が天下溢れかえっている。殺した数は千人見たぬのに、刑虐といっている。もし峻刑罰で当たったらば、朕の事を何というのか!」と述べた。また前年の春より国内では虎狼による獣害多発しており、百姓ついには農業養蚕放棄してしまうほどであった7月群臣はこの災禍を払うよう上奏したが、苻生は「野獣飢えて人を食っているが、満ち足りた自ずと止むであろう連年煩いとはなりえぬ。それに、どうして天が群生(民)を子愛せず、年々渡って罰を降そうか。百姓犯罪止まないので、朕が専殺して刑教を施すのを助けてくれているに過ぎない犯罪亡くなるのであれば、どうして天を恨んで人を咎めようか!」と述べ取り合わなかった。 356年10月苻生夜に多く食し、朝になると体調を崩したので、太医令の程延を呼び寄せて診断させた。程延は「陛下はどこも悪くありません。ただナツメ食べ過ぎただけです」と答えると、苻生怒って「汝は聖人でもないのに、どうして我がナツメ食べたと思うか!」と言い、これを殺害した357年2月、ある官吏が「金星不吉な方位表れており、これは必ずや反乱が起こる事の前触れです」と上奏したが、苻生は「星が井(東井)に入ったのは、単に渇き癒したかったからだろう。どうして怪しむ事がある!」と意に介さなかった。 357年4月苻生巨大な魚食べ夢を見たが、苻氏は元々の姓がであった事から気分害したまた、この時期長安では歌謡流行り東海大魚は龍と化す。男はみな王となり、女はみな公となる。洛門東の所在はいずこか問う」というものであった東海苻堅封地であり、彼は龍驤将軍であり、洛門の東に邸宅があった。だが、苻生苻堅指しているものと気づかず、夢で見た内容結び付け大魚とは太師魚遵事だ決めつけ、魚遵をその7人の子10人の孫と共に誅殺した。また、ある時に百里空城望み鬱鬱としてどうして青青たるか。瞎児(目の見えない子)は法を知らず仰いで天星見えず」という歌謡流行ると、苻生多数空城破壊して、これを祓わんとした。 357年4月金紫光禄大夫の牛夷は、自身身の危険感じたため荊州の豊陽川への赴任要請したが、苻生は「卿は忠粛にして篤敬である。朕の左右に控えるべきだ。どうして外鎮とする理があろうか」と述べ中軍将軍任じたその後引見すると、苻生は「牛は大人しく落ち着きがあり、よく車子牽く事が出来るという。素早い足は無くとも、百石背負ってお互く事が出来という事だな」と述べると、牛夷は「大車服すとはいえども、未だ峻壁を経験しておりません。願わくば一度重載を試し勲功実績知っていただきますよう」と述べた苻生笑って「どうしてそのように逸るのだ。公は荷が軽いのが嫌ではないのかね。朕はまさに魚遵爵位公に与えよう思っている」と言った。牛夷はこれにますます恐怖抱き自宅帰る自殺してしまった。 357年6月太史令の康苻生へ「昨夜三つの月並び出で、孛星が太微に入り、東井に連なりました。また、先月上旬より、曇天のまま降らず、今に至っております。これは下人が謀上の禍をなしていると思われます。陛下が徳を修め、これを消す事を深く願います」と述べた苻生怒り妖言為したをもって撲殺した。 将軍の強懐は桓温との戦いで戦没したが、子の強延がまだ封じられない内に苻健亡くなった。そのために、強懐の妻である樊氏道端直接苻生上書し、強懐の忠烈論じ、子を封じるよう請うた。苻生無礼な振る舞い怒り覚え樊氏その場射殺した苻生阿房宮に向かう途中、ある兄妹出会い非礼性行為)を為すよう迫った。彼らが拒絶すると、苻生怒って殺害した。 ある時、群臣咸陽故城酒宴催したが、これに遅れてきた者は全て斬り殺したという。 苻生左右側近へ「我が天下臨んでいることについて、汝は外からどのようにきいているかね」と問うと、側近は「聖明なる陛下が世を治めおかげで賞罰は明確となり、天下太平謳歌しおりますと言うと苻生激怒して「汝は我に媚びを売るか!」と言い斬り殺した別の日、同じ質問をしたので、ある側近は「陛下刑罰にはやや過ぎたるところがあります」と諫言すると、苻生はまた激怒して汝が我を謗るのか!」と言い同じよう斬り殺した

※この「主な逸話」の解説は、「苻生」の解説の一部です。
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